山根20 )福澤諭吉と翻訳語(その2)・・・22号

福澤諭吉と翻訳語(その2)

山根 昭郎 (1975 法卒)

前号に続いて、福澤諭吉と明治期における翻訳語について考察をしてみよう。

「社会」は明治期に作られた societyの翻訳語のひとつである。明治10年代以降人口に膾炙するようになったといわれている。われわれ現代人が当たり前のように使っているこの語が日本語として定着してから100年以上が経っていることになる。

しかし、かつて society は翻訳が難しい言葉であった。その理由は society に対応する日本語がなかったからである。それはとりもなおさず、当時の日本には society が表すような実態が存在していなかったとの現実に立脚している。

福澤諭吉は1868年に、『Political Economy』という原著をベースにして『西洋事情 外編』を出版している。この原著のなかに、society という言葉が当然ながら出てくる。それに対して、福澤は「人間交際」という訳を与えた。なかなか言い得て妙ではなかろうか。しかし、ここで注意しなければならないのは、福澤は必ずしも society の対訳語に「人間交際」を充てたのではなく、文脈として、人間のお互いが関わり、交じり、生きていく世界で、我々はどうするのかという描き方をもって、society における人間というものを考えたうえで、societyを訳出しようとしたことが読み取れることである。敷衍すれば、福澤の「人間交際」という言葉は当時、まだ制度として共通認識されない「社会」が日本にもあるものと仮定して、ひとが、その「社会」の主体であると喝破したうえで、その翻訳を与えたことを意味しているのである。

ただし、そのような洞察に基づいた訳語ではあったが、結局「人間交際」は society の翻訳語として定着することはなく、その後、明六社に集う福澤を含む知識人を中心として訳出が試みられ、いくつかの変遷を経て、society は「社会」として落ち着くことになったようだ。

そうであればこそ、福澤は1876年、『学問ノススメ』(17編)の中で、「世間」と「社会」とを区別すべき概念として扱って、次のように述べている。(アンダーラインは筆者による。)

然りといえども、およそ世の事物につきその極度の一方のみを論ずれば弊害あらざるものなし。かの士君子が世間の栄誉を求めざるは大いに称すべきに似たれども、そのこれを求むると求めざるとを決するの前に、まず栄誉の性質を詳(つまび)らかにせざるべからず。その栄誉なるもの、はたして虚名の極度にして、医者の玄関、売薬の看板のごとくならば、もとよりこれを遠ざけ、これを避くべきは論を俟(ま)たずといえども、また一方より見れば社会の人事は悉皆(しっかい)虚をもって成るものにあらず。人の智徳はなお花樹のごとく、その栄誉人望はなお花のごとし。花樹を培養して花を開くに、なんぞことさらにこれを避くることをせんや。栄誉の性質を詳らかにせずして、概してこれを投棄せんとするは、花を払いて樹木の所在を隠すがごとし。これを隠してその功用を増すにあらず、あたかも活物を死用するに異ならず、世間のためを謀(はか)りて不便利の大なるものと言うべし。

(筆者による大意:およそ世間の物事について極端に一方だけを論じれば支障が生ずる。世間の栄誉を求めないのは賞賛すべきと思えるが、求める、求めないの前に栄誉とはどういうものかを明らかにする必要がある。それが虚名の最たるものであって、医者の玄関や薬店の看板が虚仮おどしなら避けるべきは当たり前。しかしながら、また一方から見れば、人間の社会というものは、すべて虚構で成り立っているわけではない。人の知性や人徳は花の咲く樹木のようなもので、栄誉や人望は咲いた花のようなものと考えれば、それをなぜ避ける必要があろうか。隠したからといってメリットが増すわけでもない。むしろ活かすべきものを殺しているのと同じだ。それは世間のためにも、かえって甚だしく不都合なことであると言える。)

これを読むと、福澤が世間と社会を対比、区別していることがよくわかる。また、「世間」は明治期以前の、古き良き日本における、こなれた言葉であり、それは世相を映す鏡のようなもので、日本における「社会」の前世紀的な概念だったとの想像が難くない。そこに「社会」という翻訳語が現出し、それによってその言葉に当てはまる、有り得べき実体が、ひとつの抽象的で近代的な概念として希求されていったのではなかろうか。

次号では、さらに論考を詳しく進めていきたいと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトは reCAPTCHA で保護されており、Google の プライバシーポリシー利用規約が適用されます。