山根21 )福澤諭吉と翻訳語(その3)・・・23号

福澤諭吉と翻訳語(その3)

             山根 昭郎 (1975 法卒)

前号では Society の翻訳語として、当初福澤諭吉は「人間交際」という訳をて当てたと書いた。当時、Society に対応する言葉がなく、これを日本語に訳出することは相当な困難があった。その状況で、「人間交際」という翻訳を与えたことには、福澤の慧眼を感じる。なぜならば、現代に住む我々にとって、Society の対訳である「社会」は当たり前の概念として認識されているが、明治の初めにあって日本には近代的な社会そのものがまだ存在していなかったにもかかわらず、福澤は、社会を形作るものの実体、具体が「人間の交わり」であることを見抜いていたと思うからである。

一方で、前号で、「世間」という言葉は、明治期以前の古き良き日本における、言わば世相を映す鏡のようなもので、日本における「社会」の前世紀的な概念だったのでないかと述べた。そこに「社会」という翻訳語が現出し、それによってその言葉に当てはまる、有り得べき実体が、ひとつの抽象的で近代的な概念として希求されていったのではなかろうか、と締めくくった。

今回は「人間交際」や「世間」という言葉から、比較的短い期間で「社会」という言葉に変化、あるいは進化のような変遷を遂げた過程について少しく考察してみたい。

「人間交際」は福澤の造語であったが、「交際」そのものは昔から使われていた。その意味するところは、おそらく一対一の人間関係や、せいぜい複数であってもそれほど多くはない団体同士の付き合いを意味していたと思われる。その「交際」に「人間」という、元々交際の主体であるものをわざわざ接合させたことに一定の意図を感じるのである。「交際」の主人公、主客、主体を冠することによって「交際」そのものの意義や古くからの属性を転換させ、Society が持つ、多くの人間が集まっての営み、活動といった意味合いを含ませようとしたのでないだろうか。福澤がどこまでそれを意図していたかは、あくまで想像の域を脱しないが、新しい時代の波を捉え、文明を批評しながら、新しい概念を採り入れ、日本語に定着させようとしていた、その努力の一端を窺い知ることが出来る。

さて「社会」である。どういう変遷を経てその造語にたどり着いたのか。まず「社」という言葉は、同じ目的をもった人々の集まりや団体を指すものとして明治以前から使われていた。例えば、「社」の一例として、明治六年(1873年)に結成された「明六社」は、森有礼の発起により、翌年、西周、加藤弘之、福澤諭吉らを主要社員として成立した団体で、「明六雑誌」を発行して、欧米思想の紹介や普及に努めた。

この「社」を使った言葉には、我々塾員には親しみのある「社中」がある。これは同じ志をもった仲間である「社」の中にある構成員を表す言葉だが、例えば有名な「亀山社中」は、1865年坂本竜馬が長崎で結成した貿易結社で、物資の輸送とともに航海訓練を行うなど、私的な海軍の性格をもち、海援隊の前身となった。

つまり「社」は、明六社のメンバーや当時の知識人にとって、「人の集まり、営み、活動」を表す語幹をなす言葉として認識されていたことは間違いがない。そして彼らや同時代の人間によって「社」と「会」を併せて「社会」という言葉が徐々に使われるようになった。

ここで再度「学問ノススメ」第十七編から次の一節を引用したい。

「かの士君子が世間の栄誉を求めざるは大いに称すべきに似たれども、そのこれを求むると求めざるとを決するの前に、まず栄誉の性質を詳(つまび)らかにせざるべからず。その栄誉なるもの、はたして虚名の極度にして、医者の玄関、売薬の看板のごとくならば、もとよりこれを遠ざけ、これを避くべきは論を俟(ま)たずといえども、また一方より見れば社会の人事は悉皆(しっかい)虚をもって成るものにあらず。人の智徳はなお花樹のごとく、その栄誉人望はなお花のごとし。」

(現代語訳:見識のある立派な人々には、世間に栄誉を求めることなく、あるいはそれを浮世の虚名と考えて避けようとする者がいることは立派な人間の心がけとして、賞賛すべきではあるが、それを求めるとか求めないとか言う前に、まず栄誉というものがどういう性質のものかを明らかにする必要がある。その栄誉というものが、本当に虚名の極地であって、医者の玄関や薬屋の看板のようなものであれば、これを遠ざけて避けるべきだというのは言うまでもない。しかしまた一方から見れば、この社会における人間関係はすべて虚構で成り立っているわけでない。ひとの知性や人間性は、花の咲く樹木のようなもので、栄誉や人望は咲いた花のようなものだ。)

ここで福澤が「社会」という言葉を使い、それを「世間」と対比して使っていることに再度注目したい。福澤は自分の造語である「人間交際」を捨て、明六社の社中で使われつつあった「社会」という言葉を採用したと思われる。そして、ここに、「世間」という古い概念や、「社」という比較的狭い範囲でのひとの集まりを脱し、近代的な概念、広い意味での人間関係を表す「社会」という日本語が生起したことを観ることができる。(了)

*  山根 昭郎:(KAHMジャパン株式会社 アソシエイト・コンサルタント、

HORIBA-MIRAジャパン シニアマネージャ、通訳案内士、元住友商事勤務)

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「参考資料」

福澤諭吉と翻訳語 (1)

山根 昭郎 (1975 法卒)

なぜ日本人は英語が下手なのか、それにはある偉大な人物が大きくかかわっているという話をご存じだろうか。すでに想像がつくかもしれない。そう、福澤諭吉がその原因を作ったという説だが、掘り下げていくと興味深いものがありそうだ。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」と述べて、誰にも等しく学問の重要性を説いたのが福澤諭吉であった。彼の功績のひとつとして、明治という日本の一大変革期にあってそのほかの学識者とともに、欧米の言葉の意味を捉え翻訳し、日本語の言葉を作り出したことにある。

福澤がそうやって世に送り出した言葉には次のようなものがあるといわれている。

・自由

・社会

・経済

・演説

・為替

眺めてみて、改めてこれらの言葉がなければ、我々の知的な活動、生産活動に大きな支障があることに気づかされる。 一番感心するのは、それまでの日本にはなかった概念や事象を表わす必要があったものを、漢字の持つ機能を活かして体現する言葉を造り出したことである。

福澤の外国語に対する考え方、姿勢には、当初はオランダ語に取り組み、かなりの域に達してから、これからは英語が主流になると敏感に察知し、ある意味、相当の覚悟を持って英語に切り替えたという経緯があり、彼はどういう思いでこのような翻訳語を作り出したのか、まことに興味が尽きない。次号では、その観点からより詳しく追っていきたいと思う。    (続)

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福澤諭吉と翻訳語(その2)

山根 昭郎 (1975 法卒)

前号に続いて、福澤諭吉と明治期における翻訳語について考察をしてみよう。

「社会」は明治期に作られた societyの翻訳語のひとつである。明治10年代以降人口に膾炙するようになったといわれている。われわれ現代人が当たり前のように使っているこの語が日本語として定着してから100年以上が経っていることになる。

しかし、かつて society は翻訳が難しい言葉であった。その理由は society に対応する日本語がなかったからである。それはとりもなおさず、当時の日本には society が表すような実態が存在していなかったとの現実に立脚している。

福澤諭吉は1868年に、『Political Economy』という原著をベースにして『西洋事情 外編』を出版している。この原著のなかに、society という言葉が当然ながら出てくる。それに対して、福澤は「人間交際」という訳を与えた。なかなか言い得て妙ではなかろうか。しかし、ここで注意しなければならないのは、福澤は必ずしも society の対訳語に「人間交際」を充てたのではなく、文脈として、人間のお互いが関わり、交じり、生きていく世界で、我々はどうするのかという描き方をもって、society における人間というものを考えたうえで、societyを訳出しようとしたことが読み取れることである。敷衍すれば、福澤の「人間交際」という言葉は当時、まだ制度として共通認識されない「社会」が日本にもあるものと仮定して、ひとが、その「社会」の主体であると喝破したうえで、その翻訳を与えたことを意味しているのである。

ただし、そのような洞察に基づいた訳語ではあったが、結局「人間交際」は society の翻訳語として定着することはなく、その後、明六社に集う福澤を含む知識人を中心として訳出が試みられ、いくつかの変遷を経て、society は「社会」として落ち着くことになったようだ。

そうであればこそ、福澤は1876年、『学問ノススメ』(17編)の中で、「世間」と「社会」とを区別すべき概念として扱って、次のように述べている。(アンダーラインは筆者による。)

然りといえども、およそ世の事物につきその極度の一方のみを論ずれば弊害あらざるものなし。かの士君子が世間の栄誉を求めざるは大いに称すべきに似たれども、そのこれを求むると求めざるとを決するの前に、まず栄誉の性質を詳(つまび)らかにせざるべからず。その栄誉なるもの、はたして虚名の極度にして、医者の玄関、売薬の看板のごとくならば、もとよりこれを遠ざけ、これを避くべきは論を俟(ま)たずといえども、また一方より見れば社会の人事は悉皆(しっかい)虚をもって成るものにあらず。人の智徳はなお花樹のごとく、その栄誉人望はなお花のごとし。花樹を培養して花を開くに、なんぞことさらにこれを避くることをせんや。栄誉の性質を詳らかにせずして、概してこれを投棄せんとするは、花を払いて樹木の所在を隠すがごとし。これを隠してその功用を増すにあらず、あたかも活物を死用するに異ならず、世間のためを謀(はか)りて不便利の大なるものと言うべし。

(筆者による大意:およそ世間の物事について極端に一方だけを論じれば支障が生ずる。世間の栄誉を求めないのは賞賛すべきと思えるが、求める、求めないの前に栄誉とはどういうものかを明らかにする必要がある。それが虚名の最たるものであって、医者の玄関や薬店の看板が虚仮おどしなら避けるべきは当たり前。しかしながら、また一方から見れば、人間の社会というものは、すべて虚構で成り立っているわけではない。人の知性や人徳は花の咲く樹木のようなもので、栄誉や人望は咲いた花のようなものと考えれば、それをなぜ避ける必要があろうか。隠したからといってメリットが増すわけでもない。むしろ活かすべきものを殺しているのと同じだ。それは世間のためにも、かえって甚だしく不都合なことであると言える。)

これを読むと、福澤が世間と社会を対比、区別していることがよくわかる。また、「世間」は明治期以前の、古き良き日本における、こなれた言葉であり、それは世相を映す鏡のようなもので、日本における「社会」の前世紀的な概念だったとの想像が難くない。そこに「社会」という翻訳語が現出し、それによってその言葉に当てはまる、有り得べき実体が、ひとつの抽象的で近代的な概念として希求されていったのではなかろうか。

次号では、さらに論考を詳しく進めていきたいと思う。

冒頭(その3)へ続く

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