山根9)半学半数を実践した小泉八雲夫妻・・・(11号)
半学半教を実践した小泉八雲夫妻
山根 昭郎 (1975 法卒)
◆「半学半教」とは
慶應義塾ホームページによれば、半学半教について、次のように書かれている。
「教える者と学ぶ者との師弟の分を定めず、先に学んだ者が後で学ぼうとする者を教える。教員と学生も半分は教えて、半分は学び続ける存在という、草創期からの精神です。」
◆諭吉と同時代を生きた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と妻セツの関係
最近、仕事で松江市を訪ね、小泉八雲と妻セツの生き方、そして二人の関係について深く知る機会を得た。この二人は、まさに半学半教の実践者であった。
アイルランド人の父とギリシャ人の母を持ち、漂流するかのように、欧米大陸、西アジアなど各所に移り住んだ後、日本に深い興味を持ち、齢40歳にして来日したラフカディオ・ハーンにとって、松江で英語教師の職に任じたことが、彼自身と、やがて出会うセツとの人生を決定づけた。
セツは没落士族の娘であり、権勢を誇った縁戚の多い名家に生まれたが、没落と貧困を味わい、頼れる縁者もなく、独りで人生を切り拓いていかなければならなかった。さらには、江戸から明治の激変に人々が翻弄される時代にあって、親藩の松平家が廃藩置県まで治めた松江藩が持つ微妙な政治的位置が、松江に住む士族の没落を一 層過酷なものに追いやった側面があったともいえよう。その時代を背景とした人生の転変、奇しき運命の出会いを機に、セツは、同様に孤影を背負っていたラフカディオ・ハーンと結ばれることになったのである。
彼女は日本式美徳をもって献身的に八雲に仕え、夫が興味を持ちそうな昔話、逸話、題材などを懸命に探し出しては、八雲に伝える。一方で八雲がセツに英語を教える。その発音をカタカナで詳細に書き取った記録が残っている。八雲は記している。「日本の女性は何と優しいのでしょう。日本民族の善への可能性は、この日本女性の中に集約されているようです」と。生涯、お互いに尊敬の念を忘れずに、お互いが学び、教えあった二人の姿を思い浮かべると、感動の涙を禁じ得ない。
◆八雲の年譜と諭吉の年譜対比
二人に直接の接点はない。しかし、ほとんど同時代を生きていた。
ちなみに、八雲が来日した1890年は、慶應義塾大学部が設置された年である。二人の年譜を対比してみた。添付表を参照。(諭吉年譜の出典は、慶應義塾ホームページによる。)
(了)