山根10)福翁百話が説く宇宙と人間について・・・(12号)

                        福翁百話が説く宇宙と人間について

                                                       山根 昭郎 (1975 法卒)

福翁百話

福翁百話は、『時事新報』紙に、1896年(明治29年)3月1日から連載を開始し、1897年(明治30年)7月4日まで掲載された百編から成る、諭吉翁のエッセーである。

◆福翁百話にみる宇宙の記述

諭吉は、宇宙が人知では測り知ることが出来ない広大な存在であることを明確に描き出している。それが誰かによって造り出されたものなのか、自然にできたものなのかなどという議論については深く立ち入ることはしない。そして、宇宙は、ただただ、私たち人間の想像を超えているとしか言えない、その広大さは表現する言葉も見つからない、それと同時に、寸分の狂いもなく動いている緻密さも同様に筆舌に尽くしがたい、と断じている。その潔さとプラグマティックな描写の姿勢は小気味が良い。我々は、これを読んで、諭吉が生きた時代からみれば、はるかに科学が進歩してきた現代に居るにも関わらず、諭吉が見抜いた真理にいささかも変わりがないことに、改めて驚き、感銘を心に刻むのである。

◆自らを振り返っての体験

私(筆者)は、割と多感な少年時代を過ごしたのかも知れない。と言うのは、子供の頃気に入らぬことがあったりすると、ぷいと部屋を抜け出して、庭にある木によじ登り、家の屋根に上り、屋根瓦の上に寝転んで時間を過ごすことが少なからずあったからである。そこで天空に散りばめられた無数の星を眺めていると、ふっと自分が宇宙に吸い込まれていくような錯覚に陥ることがあった。自分の存在は、何百万年、何千万年の闇と光の天空世界にあって、まったく取るに足らないものであることに気づき、まるで捕えられた小動物のように身ぶるいしていたのである。しかし、あの恐怖と感動は、やがて大人になるにつれて忘れていった。

◆人間の安心とはなにか

諭吉は、宇宙に地球が存在すると言うことは、大洋にちっぽけなケシの種が浮かんでいるようなものであると例える。そして、次のように言う。

「私たち人間と呼ばれる生きものは、この小さなケシの種の上に生まれて死んでいくもので、生まれたからといって別に自分が生まれてきた理由を知るわけでもなく、死ぬからといって別に自分が死ななければならない理由も知らない。どのような理由でこの地球のこの人生に自分がやって来たのかも知らず、死んだ後にどこに去って往くのかも知らない」と。哲学者や宗教家などは、このようなときにあって、あたかも悟りを開いたような言葉を述べるのであろうが、諭吉はあくまで知らないことは知らないと突っぱね、放っておく。

 

そしてさらに次のように言う。

「せいぜい一メートル数十センチの身体を、たった百年ほど生きていくことすらも難しい。人間は、宇宙からすれば塵やほこり、水たまりに浮かんだり沈んだりするボウフラのようなものに過ぎない。蜻蛉(かげろう)は朝に生まれて夕方には死んでしまう。宇宙からすれば、人間の寿命も蜻蛉の寿命も大差はない。蚤(のみ)と蟻が背比べしても大きな象の眼から見れば何のことはあろう。人間が一秒の違いで速さや遅さを競い合ったとしても、百年の単位でみればその差は論じる意味もなくなる。そういうわけで、宇宙のはてしない広さや長さを基準に照らせば、太陽も月も、地球もまさに微かなものに過ぎない。」

「人間のように、愚かで無力で、まことにみすぼらしくみじめな蛆虫と同じように小さな生きものは、電光石火の短い時間の間、たまたま偶然この世に生まれて息をして睡眠をとって食事をし、喜怒哀楽の中で夢のように生きて、すぐに消えてしまいなんらの痕跡も残さないだけのことである。」

「凡庸で通俗的な人間の世界では、地位や身分が高い低いや、経済的に豊かであるか貧しいか、栄枯や盛衰などと言い募り、大変な努力ややりくりをして心身を痛めているが、その様子は、庭に大きな巣をつくっているアリの群れが大雨に打たれたり、夏の青草で飛び跳ねている飛蝗(ばった)が急に冷たくなった秋風に晒され、驚いているようなもので、その様はおかしなことでもあるし、あきれることでもある。」

このようにつき放した上で、諭吉は人間となにかについて、次のように諄々と述べ、我々を諭すのである。

「しかし、すでにこの世に生まれた以上は、蛆虫であっても、蛆虫ながらの覚悟を持たないわけにはいかない。」

「その覚悟とは何であろうか。」

「人生はもともと遊戯や冗談のようなものだ。それを自覚しながら、このわずかな時間に過ぎない人生において、それを遊戯や冗談とはせずに、まるで真剣なもののように真剣に努力し、貧しさや苦悩を離れて豊かに幸福になることを目指し、宇宙から見ればほんの一瞬であったとしても数十年のこの人間のいのちも長いものだと思って、父母に孝行を尽くす、夫婦が仲良く過ごす、子や孫のためにできるだけのことをしてあげる、また自分の家族以外の公共の利益についても配慮をし、努力をする、生きている間は一点もあやまちがないように心がける、それこそが、蛆虫の本分であり、本来尽くすべき務めというべきものでないだろうか。」

「いや、これは蛆虫のことではないのだ。万物の霊長としての人間だけが、誇りを持って、成し遂げられるものなのである。」

(了)

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