山根28 )交友抄(その七)・・・30号

交友抄(その七)~多摩慶応倶楽部文化セミナーから

                   山根 昭郎 (1975 法卒)

3月13日に多摩慶応倶楽部での文化セミナーで、「イザベラ・バードが見た明治の日本」―『日本奥地紀行』の現代的意義―とのテーマで講演を行いました。

英国人女性、イザベラ・バードが47歳にして、初めて日本を訪問した1878年(明治11年)から数えて、今年2019年で丸140年になります。

1.まずは彼女の人間像はどんなだったのか、彼女の生涯を追ってみました。

誕生 1831年(天保2年)にイギリスのヨークシャーで牧師の長女として生まれました。3年後に妹ヘンリエッタ誕生し、仲の良い姉妹として育ちます。後に日本から英国に居る妹宛ての手紙として旅行記が書かれました。

旅行作家としてのデビュー 1854年(安政元年)23歳の時に、医師の勧めで療養を兼ね、アメリカ・カナダに旅立ちます。これは6か月に及ぶ本格的な大旅行となります。その紀行を本として出版し旅行作家としてデビューを果たしました。

日本への旅行 1878年(明治11年)47歳のときに、日本への旅行を決行。5月に上陸し東北と北海道を踏査。関西方面へも旅行、12月離日。

東北・北海道の旅行記を出版 1980年(明治13年)に、

Unbeaten Tracks in Japan」(後に日本での翻訳本の題名、「日本奥地紀行」として知られる)を出版し、英国を中心に西欧で好評を博した。同年に妹死去。翌年、妹の侍医だったビショップ氏と結婚したが、5年後に夫は病没。

その後、50代でインド・チベット方面への旅行を敢行し、各地で亡き妹と夫を記念して病院を創設するなど、医療伝道に尽力した。

1892年(明治25年)61歳のとき、英国王立地理学協会の女性初の特別会員に迎えられ、翌年、ヴィクトリア女王に謁見した。63歳から65歳にかけ、日本にも立ち寄りつつ、動乱の朝鮮半島や中国大陸を駈け巡り、後に朝鮮紀行を出版した。

1904年(明治37年)10月7日、イギリスのエディンバラで死去。享年72歳。

彼女の生涯や著作から次のような人物像が浮かび上がってきます。

・牧師夫妻の長女として生まれ、英国教会の伝道精神を受け継ぐ。

・幼い頃から病弱、脊椎に病。海外への大旅行は医者の奨めによる転地療養の意味も。

・強靱な精神力とあくなき好奇心。英国人の探究心と実行力を体現。

・自然への愛と人間観察。近代化の緒についた日本の文化と文明の状況を冷静に分析。

・そのモチベーションは何であったのか、読者の関心を惹きつける永遠の謎である。

2、日本探査ルートは次の通り

東京 → 粕壁(春日部) → 栃木 → 日光 → 会津 → 新潟 → 小国 → 置賜(山形県南部) → 山形 → 新庄 → 横手 → 久保田(秋田) → 青森 → 函館 → 室蘭 → 白老・平取(アイヌ部落) → 函館 → 横浜

3.本書の今日的意義――当時の年表で、日本と英国との関係、並びに彼女の日本訪問をプロットして、歴史的意義を考え合わせてみます。

・日本近代化 ペリー来航(1853) 日米和親条約(1854)

・日露和親条約(1855) 北方四島の帰属

・薩英戦争(1863) その後、薩長は英公使パークス、アーネスト・サトウの協力を得て軍事増強(武器調達)→倒幕につながっていく・・・1868年 明治元年

・戊辰戦争では英仏は中立の立場(局外中立) 但し五稜郭の箱館政府を英仏は承認→しかし結局五稜郭は陥落・開城(1869年戊辰戦争終結)

・1875年 樺太・千島交換条約(千島全体が日本領、樺太全島がロシア領)、小笠原諸島の領有宣言(米英に通達、翌年承認)

・1876年 江華島事件→日朝修好条規(1876)

・1877年 西南戦争

・1878年(バード女史来日) 同年 紀尾井坂の変(大久保利通暗殺)

・1889年 大日本帝国憲法公布

・1894年 日清戦争 翌年 下関条約  三国干渉

・1900年 義和団の乱(北清事変) 柴五郎の活躍

・1902年 日英同盟

・1904年 日露戦争 翌年 ポーツマス条約 同年 イザベラ・バード没

今年、2019年はイザベラ・バードの来日からちょうど丸140年となります。

以上

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