山根22 )交友抄(その一)・・・24号
交友抄(その一)
山根 昭郎 (1975 法卒)
勝手にこんな題名を付けてみました。日経新聞に「交遊抄」という似た題名のコラムがあります。なにが言いたいかというとけっしてパクリでないということです。こちらは、新聞に載る著名人に比べ、あくまで市井の人間の、日常生活における身近な話題に過ぎません。とは言え、誰にとっても同じでしょうが、友人との巡り会いやつき合いは、それなりに感慨深いものです。時に、えっと思うような再会もあるものです。
仮にK君と、その友人を呼ぶことにします。K君とは慶應スイミングクラブの同期で、大学の4年間は共に遊んだ仲でした。一方、彼とは同じ法律学科でしたが、共に勉強したという記憶がまったくありません。よほど遊ぶことに意気投合していたのでしょう。大学4年時の夏休みには一緒に北海道を車で旅行し、各地要所を巡り、最後は東京への帰路に東北を通りました。
しかし卒業以来、彼は故郷の京都に戻り、地元企業に就職し、僕は東京で就職、以来ほとんど会うことがなくなってしまいました。昔は、携帯電話も電子メールもなかったため、引っ越したりして住所が変わると、連絡する手段がなくなり、音信が途絶えてしまうことが少なくありませんでした。僕とK君も卒業してから、どこでどうしているやらと思うことはあっても、まったく連絡もとれない年月が数十年も過ぎていきました。
僕自身、入社3年目でイランに赴任し、それ以来日本と海外を行ったり来たりの生活を余儀なくされてしまいました。会社生活で引っ越しは10数回を越え、20回には満たない程度の回数をこなしています。結局、2009年から会社生活最後の任地として3回目の関西での生活を送ることになりました。この関西の地では、大阪慶應倶楽部に入会し、ここでも多くの方と巡り会うことが出来ました。その縁を通じ、塾員で熱心な宝塚ファンが主宰する「関西宝塚を観る三田会」にも参加していました。
その後、大阪での勤務をもって長年勤めた会社を退職し、二年前に神奈川の実家に引っ越してきました。(これが会社生活を締めくくる最後の引っ越しでした。) そんなある日、「関西宝塚を観る三田会」の世話役をされている女性のSさんからお手紙をいただきました。それは、宝塚の記念品を送っていただいたお礼状への返事でした。それを読んでいて、思わず「えっ」と声を出しました。
「山根さんは私の姉と同期で、もっといろいろお話していたら共通の知人がいたかもと残念です。宇宙へ行った向井さんも同期ですよね。京都のKさんとか、ご存知ないですか?確か水泳をやっていたと聞いたような…。今後関西へ来られることがあれば、また観劇会に是非ご参加下さい。」
さっそく、それはK君のことではないか、これこれこういう人物だが、と問いかけるメールを出しました。すぐにSさんから次の返事が来ました。
「いやあ、やっぱりそうでしたか! Kさん、サラリーマンから建築家に転身後、なんと私の家を建てて頂きました!八年前です。良い家を作っておられます。今はもう100 棟目を建てているそうです。」
K君とは、つい最近京都に出張の折、再会を果たすことができました。それにしても慶応義塾の人脈のなせるわざと言わざるを得ません。彼との再会には次の奇跡が重なっていました。
・Sさんの自宅をK君が建てたこと。
・K君はふだん慶應出身と自ら言うことがほとんどなかったにもかかわらず、Sさんの家で慶應グッズを見かけたK君の会社の営業マンが「ウチの社長も慶應出身ですよ」と営業トークをしたこと。
・僕が柄にもなく宝塚を観る会に参加し、その幹事役をSさんが務められていたこと。
・Sさんと宝塚記念グッズの件で、たまたまメールでやりとりし、K君の話がでたこと。
こんな偶然の重なりのおかげで、40年ぶりに再会を果たしたというお話でした。
次回は、また別の偶然のなせる、慶應つながりの、ひととの巡り会いについて書いてみようと思います。