山根2) 手塚治虫と福澤諭吉・・・(2号)

手塚治虫と福澤諭吉

山根 昭郎(1975年 法卒)

 まず初めにお断りしなければならない。実は、表題にある「手塚治虫と福澤諭吉」の接点をもとに、歴史を背景とした評論を書こうと考えていた。しかし、十分に構想が練られて、準備が整っているわけではない。つまり、これから書こうとするテーマを消化しきっていないということだ。だから、話は脱線したり、一貫性がないことになりそうだ。そういう言い訳をしておいて、とにかく書き始めることにする。

 僕は今、手塚治虫氏が育った宝塚市に隣接する西宮市に住んでいる。宝塚市には、手塚治虫記念館があり、一度訪れたことがある。僕は幼少の頃、氏の漫画が大好きで、ストーリー性にあふれたロマンや、魅力的なキャラクターの縦横無尽の活躍に胸を躍らせ、おおいに想像力がかきたてられたものだった。

 氏が漫画家であるとともに、医者であったことはよく知られている。正しくは大阪大学付属医学専門部の出身で、医学部卒ではなかったらしい。当時世間的に評価が低かった漫画家の社会的身分を引き上げるために、経歴を詐称したのでないかとの話もあるが、そんなことはどうでもよい。彼によって、日本の漫画が文化、芸術として確立したという功績は、いささかも変わりがない。

 さて、彼のルーツを辿ると、曽祖父、手塚良仙(てづか りょうせん)にたどり着く。良仙は幕末から明治に生きた医師・蘭学者であった。略歴はざっとこうだ。

手塚良仙(良庵) 文政9年(1826年)- 明治10年(1877年)

・手塚良庵(りょうあん)は、常陸国府中藩医の手塚良仙(手塚光照)を父に生まれ、緒方洪庵の適塾に入門。福澤諭吉らと親しむ。
・江戸に帰って、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、「お玉が池種痘所」(現在の東京大学医学部の前身)を設立。
・父を継ぎ良仙と改名し、幕府歩兵屯所付医師となり、維新後、大日本帝国陸軍軍医となる(大尉相当官)。
・西南戦争に従軍、九州で赤痢に罹り、長崎陸軍病院にて没。(以上 出典 Wikipedia)

 手塚治虫氏は、後年、良仙を主人公のひとりとした歴史大河漫画「陽だまりの樹」を執筆している。ストーリーは史実にフィクションを加えている。この作品が実に面白い。そしてその幕末から明治にかけての時代はまことに興味深い。

 その漫画には、適塾での塾生の生活ぶり、緒方洪庵など歴史の人物像とともに、福澤諭吉と手塚良仙との交流が描かれている。もちろん、デフォルメはあるものの、逆に漫画であるからこその絵物語が、鮮やかなイメージとなって読者に訴えかけてくる。

 そこで描かれる福澤諭吉は、蘭学を一心不乱に学ぶ学徒であるとともに、酒好きで、稚気と茶目っ気にあふれる人物だ。「陽だまりの樹」を読むと、この時代には、蘭方医学が新しく台頭したが、権力と癒着した、既成勢力であった漢方医学から激しい抵抗と抑圧を受けたことがよく理解できる。しかし近代的だった蘭方医学は、実力でその圧力を撥ね退け、種痘を普及させるなどして、世に認められるような変革をもたらす。さらに時代は変遷し、オランダ語よりは英語を学ぶべきでないかという機運が生じてくる。世界の覇権は大英帝国が握り、オランダには昔日の面影はなくなっていったからである。

 こんな逸話が伝えられている。長崎と適塾でオランダ語を学んだ福澤諭吉であったが、安政6年(1859年)、日米修好条約により外国人居留地となった横浜の見物にでかけた。そこではもっぱら英語が使われており、英語の看板すら読めないことに衝撃を受けた。それ以来、英語の重要性をつよく認識した諭吉は、英蘭辞書を頼りに、猛烈に英語を学び始めた。やがては、英語の単語を日本語の新語として「翻訳」して、僕たちが今もそれらを使っているという話は、前号で「福澤諭吉と英語」というテーマで書いたとおりである。

 福澤諭吉や手塚良仙は、激しい変動の時代を生きた。新しいものに対する青年の好奇心と燃えるような向学心が、時代の変革の原動力になったことは間違いがないだろう。

 さて、手塚治虫と福澤諭吉の接点についてご理解がいただけただろうか。紙幅に限りがあるので、今回はこの程度で終わらすことにしよう。尻切れトンボの感はご容赦願いたい。だから、初めに言い訳を書いた次第である。了

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