町田2) 台湾で最も愛される日本人~八田興一~・・・(8号)

〔台湾三田会便り〕
 町田 健司(1979 法・法律卒)

2013年9月24日
~台湾で最も愛される日本人~八田興一~

2年前の東日本大震災で200億円というずば抜けて多い義捐金を被災地へ送ってくれた親日国家「台湾」
その近代史はざっと次の「五つの時代」に整理されます。

①蘭国統治時代(1624-1662:38年)
②鄭氏政権時代(1662-1683:23年)  鄭成功は近松門左衛門「国姓爺合戦」のモデルで母は日本人。
③清朝統治時代(1683-1895:212年)
④日本統治時代(1895-1945:50年)  日清戦争下関条約での日本割譲から第二次世界大戦敗戦まで。
⑤中華民国時代(1945-現在:68年)

その50年の日本統治時代におき台湾近代化へ大きく貢献「親日の基礎」を作った日本人を3人挙げるなら

①後藤新平氏 医師・台湾総督・満鉄総裁・東京市長・逓信・内務・外務大臣であり
悪疫予防の為の上下水道整備そして鉄道・道路のインフラ整備に貢献。

②新渡戸稲造氏 農学者・教育者・「武士道」著者・キリスト教徒であり
世界有数のサトウキビ産地を創出し製糖業を主力産業にし経済基盤を作る。

そしてもう一人は李登輝前総統に「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、嘉南大用水路を造り上げた
八田技師がいの一番あげられる」と言わしめた台湾総督府の若き技師③八田興一氏(はったよいち)です。

八田興一といってもほとんどの日本人はピンとこないと思います(昨年台湾駐在前の小生も同じでした)

1886年金沢市生まれ。東京帝国大学土木工業科を卒業後、台湾総督府土木課に勤め56歳で戦死
するまでほぼ全生涯を台湾に住み「東洋一の大水利事業」を台南嘉南平野に完成させた人物です。

嘉南平野は南部に広がる台湾最大の平原。香川県ほどの面積で全台湾工作地面積の1/6を占める
も雨期は集中豪雨で氾濫し耕地が流され、乾期は水不足で農作物がほとんど育たない不毛の地。

地理的にも北回帰線上に位置し、世界における北回帰線上の地域はほとんどが砂漠になっています。

そんな土地を八田氏は1920年から十年の歳月をかけ、上流の烏山頭で前代未聞の大規模ダムを造り
平野部に全長1万6千KMもの用水路を張り巡らし、不毛の平原を台湾一の穀倉地帯に変えたのです。

この活躍は戦前までは日本人の間でもよく知られていたそうですが、戦後の日本植民地統治を全て否定
する歴史観と共にいつしか忘れられてしまいました。
しかしながら、台湾では中学校教科書に載るなど今でも「嘉南の父」と人々に敬愛されています。

生前、地元農民の提案によって作られた八田氏の銅像は戦争中に金属供出を求められた時期と
終戦後の日台関係が冷え切った時期に取り壊される危機を乗り超え、農民の手により隠し通され
終戦から36年たった1981年に元の場所に戻されました。

八田氏は戦争中の1942年5月8日。フィリピンに向かう輸送船で米国潜水艦に轟沈され56歳で殉職。
妻の外代樹は1945年9月1日。夫が心血を注いだ烏山頭ダムに身を投げ46歳で後を追いました。

人柱となりダムを守ってくれていると夫妻の墓がその地に建てられ、命日の5月8日には台湾の人々に
より毎年追悼式が行われ、今年9月1日には八田興一記念館にて夫人の銅像除幕式典が開催されました。

式典には交流協会代表(いわゆる日本大使)・亜東関係協会代表(台湾側政府窓口)・台南市長
もご参列され八田氏並びに銃後の守りのご夫人のご功績を讃えられ「日台交流の基盤」として
厳かに執り行われました。

「日台友好の柱」を残してくれた八田興一氏。この明治の日本人技師のスケールの大きさについては
司馬遼太郎氏の「台湾紀行」にも語りつくされています。

最後に、台湾前総統李登輝氏が2002年11月24日の連合三田会にて「台湾の水利事業に尽くした     八田興一氏」として【日本人の精神】について語られるはずでした講演草稿の全文を記載したH/Pを    添付致します。

http://www.foster1.com/article/13982707.html

以上/町田

*今でも台湾の人々に敬愛されている八田興一氏

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトは reCAPTCHA で保護されており、Google の プライバシーポリシー利用規約が適用されます。