A. Boito:オペラ『Mefistofele』より、アリア「Morte di Margerita:マルゲリータの死・この暗い海の中に」

 A. Boito 『Mefistofele』より「Morte di Margerita」

「マルゲリータの死」:「この暗い海の中に」

弾き語り演奏(練習演奏録音):録音(Rakuten Big)

(ソプラノ独唱&ピアノ伴奏:杉本知瑛子)

公開日:第1回 2023.03.31/第2回:2024.03.03

イタリア語歌詞(Ricordi版使用、日本語訳:杉本知瑛子)

L’altra notte in fondo al mare il mio bimbo  hanno gittato,

or per farmi delirare dicon ch’io l’abbia affogato.

L’aura e fredda,il cacer fosco ,e la mesta anima mia

come il passero del bosco vola via.

Ah! pieta di me!

先夜暗い荒波の中に、私は私の赤ん坊を投げ入れた。

そして私は子供を溺れさせて、気がふれてしまった。

風は冷たく牢獄は暗い。

森を飛ぶ小鳥のように、悲しく乱れた私の魂よ、

さあ 飛んでいきなさい。

ああ!神よ 我に憐れみを!

In letargico sopore e mia madre addormentata,

e per colmo dell´orrore di con ch´io l´abbia attoscata.

L’aura e fredda, il cacer fosco ,e la mesta anima mia

come il passero del bosco vola via.

Ah! pieta di me! (Ah! di me pieta!)

眠りの中で私の母は死んだ。

そして私は毒を盛ったことで、溢れんばかりの恐怖に満たされた。

風は冷たく牢獄は暗い。

森を飛ぶ小鳥のように

悲しく乱れた私の魂よ、

さあ 飛んで行きなさい。

ああ!神よ 我に憐れみを!

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            《参考:Wikipedia より》

ファウスト 第一部』(ファウスト 第一部、Faust. Eine Tragödie もしくは Faust. Der Tragödie erster Teil )は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによる悲劇戯曲。『ファウスト』2部作の第一部。1808年に発表。

*天上の序曲

天使たち(ラファエル、ミカエル、ガブリエル)の合唱と共に壮麗に幕開けられた舞台に、誘惑の悪魔メフィストフェレス(以下メフィスト)が滑稽な台詞回しでひょっこりと現れ、主(神)に対して一つの賭けを持ち掛ける。メフィストは「人間どもは、あなたから与えられた理性をろくな事に使っていやしないじゃないですか」と嘲り、主はそれに対して「常に向上の努力を成す者」の代表としてファウスト博士を挙げ、「今はまだ混乱した状態で生きているが、いずれは正しい道へと導いてやるつもりである」と述べる。メフィストはそれを面白がり、ファウストの魂を悪の道へと引き摺り込めるかどうかの賭けを持ちかける。主は、「人間は努力するかぎり迷うもの」と答えてその賭けに乗り、かくしてメフィストはファウストを誘惑することとなる。

*第一部

ファウストが悪魔メフィストと出会い、死後の魂の服従を交換条件に、現世で人生のあらゆる快楽や悲哀を体験させるという契約を交わす。ファウストは素朴な街娘グレートヒェンと恋をし、とうとう子供を身籠らせる。そして逢引の邪魔となる彼女の母親を毒殺し、彼女の兄をも決闘の末に殺す。そうして魔女の祭典「ワルプルギスの夜」に参加して帰ってくると、赤子殺しの罪で逮捕された彼女との悲しい別れが待っていた。

(ファウストは母親を眠らせて夜を一緒に過ごそうと、娘に眠り薬の入った薬瓶を渡して殺させる。また、グレートヒェンはファウストとの間に産まれた赤ん坊を深い海に沈めて殺してしまう。それで投獄された彼女は気が狂った状態で歌うのが、ボイートのオペラ『メフィストフェレ』のアリア「深い海の中へ」である。)

*あらすじ

1、ファウスト博士と悪魔メフィストーフェレスの契約

ファウストは、博士を取得した学者であった。彼はあらゆる知識をきわめ尽くしたいと願い、当時大学を構成していた哲学、法学、医学、神学の四学部すべてにおいて学問を究めるが、「自分はそれを学ぶ以前と比べて、これっぽっちも利口になっていない」と、その無限の知識欲求を満たしきれずに歎き、人間の有限性に失望していた。

そこに悪魔メフィストが、黒い犬に変身してファウストの書斎に忍び込む。学問に人生の充実を見出せず、その代わりに今度は生きることの充実感を得るため、全人生を体験したいと望んでいるファウストに対し、メフィストは言葉巧みに語りかけ、自分と契約を結べば、この世の続く限りは伴侶、召使、あるいは奴隷のようにファウストに仕えて、自らの術でかつて誰も得る事のなかったほどの享楽を提供しよう、しかしあの世で再び会った時には、ファウストに同じように仕えてもらいたいと提議する。もとよりあの世に関心のなかったファウストはその提議を二つ返事で承諾し、“この瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい!”(“Verweile doch! Du bist so schön.”)という言葉を口にしたならば、メフィストに魂を捧げると約束をする。

2、ファウストの恋とその顛末

悪魔メフィストはまずファウスト博士を魔女の厨(くりや=台所のこと)へと連れて行き、魔女のこしらえた若返りの薬を与える。若返ったと同時に旺盛な欲を身に付けたファウストは、様々な享楽にふけり、また生命の諸相を垣間見ながら、「最も美しい瞬間」を追い求めることになる。彼が最初に挑んだ享楽は恋愛の情熱であった。魔女の厨(くりや)で見かけた魔の鏡に、究極の美を備えた女性が映るのを見たことから、ファウストはひたすらその面影を追い求め、街路で出会った素朴で敬虔な少女マルガレーテ(通称グレートヒェン)を一目見て恋に落ちる。

彼はメフィストに、グレートヒェンに高価な宝石を贈らせるなどして仲を取り持たせ、ついには床を共にする。しかしある夜、風の便りに妹が男性と通じている事を聞きつけたグレートヒェンの兄ヴァレンティンとファウスト・メフィストの二人連れが鉢合わせし、決闘となる。そうしてファウストはヴァレンティンを手に掛ける。

3、ヴァルプルギスの夜

一時の気晴らしに悪魔メフィストはファウスト博士を魑魅魍魎(ちみもうりょう)達の饗宴、ヴァルプルギスの夜へと連れて行く(この乱痴気騒ぎの描写には作者ゲーテの豊富な知識と筆の力量が垣間見られ、また『夏の夜の夢』のパック、『テンペスト』のアリエルらも登場する)。ファウストはメフィストによってあらゆる魔女や妖怪達の中を引き回されるが、そこで首に”赤い筋”をつけたマルガレーテ(グレートヒェン)の幻影を見て彼女に死刑(斬首刑)の危機が迫っていることを知り、メフィストがそのことを隠し立てしていたと激怒する。実はグレートヒェンはファウストとの情事により身籠っており、彼の不在のうちに産まれた赤ん坊を持て余した末、沼に沈めて殺してしまっていた。そうして、婚前交渉と嬰児殺しの罪を問われて牢獄に投じられたのであった。

4、悲劇の結末

ファウストはメフィストと共に獄中のグレートヒェンを助けに駆けつける。しかし、気が狂ってもなお敬虔な彼女は、ファウストの背後に悪魔(メフィスト)の影を見出して脱獄を断固として拒否する。ファウストは罪の意識にさいなまれて絶望し、“O, wär’ ich nie geboren!”(おお、私など生まれてこなければ良かった!)と嘆く。メフィストは、「彼女は(罪びとであるとして)裁かれた!」と叫ぶが、このとき天上から「(そうではなく彼女は)救われたのだ」という(天使の)声が響く。ファウストはマルガレーテをひとり牢獄に残し、メフィストに引っ張られるままにその場を去ってゆく。

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*「ボーイトについて」   
アッリーゴ・ボーイト(Arrigo Boito)
今日ではヴェルディなどのオペラ台本作家として、また自身のオペラ「メフィストーフェレ」によって知られている。
基本情報
生誕 1842年2月24日
出身地 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
Flag of the Kingdom of Lombardy–Venetia.svg ロンバルド=ヴェネト王国、パドヴァ
死没 1918年6月10日(76歳没)イタリア王国の旗 イタリア王国、ミラノ
学歴 ミラノ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 詩人、小説家、作曲家、台本作家、音楽評論家

 

1860年代のボーイトは先鋭的な若手詩人・評論家であり、ワーグナーのオペラのイタリアにおける翻訳・紹介者として有名だった。

一方でボーイトのオペラ創作意欲は止みがたく、1868年にその最初のオペラ「メフィストーフェレ」を完成する。ゲーテの有名な小説「ファウスト」を原作に、自ら台本も書いたこのオペラの初演は、イタリア・オペラの総本山ミラノ・スカラ座で56回にも及ぶリハーサルの末行われた。しかしそれは、観客の口笛と怒号、劇場内外での騒擾の渦巻く惨憺たる大失敗であった。2夜目にして、警察は混乱防止の名目で上演禁止命令を出すに至る。長大な演奏時間、ボーイト自身による指揮の稚拙さ、曲そのものもワーグナーの稚拙な模倣と考えられたこと、などが原因と考えられている。このオペラは1876年と1881年の大改訂によって、今日ではしばしば公演され、また録音もされるオペラになっている。

「メフィストーフェレ」の大失敗以降のボーイトは、楽譜出版業者ジューリオ・リコルディの勧めもあり、他のオペラ作曲家のための台本執筆を行うようになる。カタラーニの”La Falce(イタリア語版)”、ポンキエッリの「ラ・ジョコンダ」”La Gioconda”(後者はTobia Gorrioなる筆名でなされた)などを経て、1881年からは、かつての芸術上の確執を乗り越え、ヴェルディとの一連の共同作業に入ることになる。

かつては不仲ともいえたヴェルディとボーイトが共同作業に入った理由としては以下の3つが指摘されている。特にイタリア・オペラの興隆のためには、管弦楽法を更に充実させた多くの歌劇作品の登場が不可欠だと感じていた点ではボーイトと同意見であったこと。次に、ヴェルディは「優れた歌劇作品には、上質の音楽は勿論、上質の台本も不可欠」と常に考え、それだけに自作に提供される台本の出来栄えに並々ならぬこだわりを示す作曲家だったが、当時は長年の友人でもあった台本作家フランチェスコ・マリア・ピアーヴェを病により失った後であり、創作を続けるため新たに有能な台本作家を必要としていたこと。そしてボーイト自身はこれまで多彩な芸術活動を展開してはいたが、どの分野においても大家とみなされ得る業績を残すには至っていない状況を鑑み、大家と協働することで、彼らの補佐役や助言者を務めることに自らの居場所を求めようとしたこと。

リコルディの引き合わせもあって、はじめに二人が着手したのはヴェルディ中期の代表作「シモン・ボッカネグラ」の改訂であった。1857年初演のこの作品にヴェルディ自身は深い思い入れをもっていたが、台本の複雑さなどから上演が稀な作品となってしまっていた。ボーイトはその卓越した文学上の才能により、より見通しのよい改訂版(1881年改訂初演)の台本を完成、この作品の成功に貢献して、ヴェルディの全面的な信頼を勝ち得る。続いて、シェイクスピアの原作を基盤にした「オテロ」(1887年)および「ファルスタッフ」(1893年)では、ヴェルディの老熟した作曲技法とボーイトの鋭い文学的感性が見事に一体化した。なお、この時代のヴェルディとボーイトの共同作業の様子は、公刊された往復書簡集にて垣間見ることができる。

杉本知瑛子(H.9,文・美(音楽)卒)

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