シューベルト:「糸を紡ぐグレートヒェン」(ゲーテ『ファウスト』より)

Gretchen am Spinnrade  Op.2 D 118 (糸を紡ぐグレートヒェン)

弾き語り演奏(ソプラノ独唱&ピアノ伴奏:杉本知瑛子)

練習録音公開:次回公開予定:

《第一回練習録音の公開:2022.11.24、録音機種:Rakuten BIG》

《第2回練習録音の公開:2023.08.13、録音機種:同上》

曲: シューベルト (Franz Peter Schubert,1797-1828) オーストリア  歌詞言語: ドイツ語

詩: ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832) ドイツ

Faust Teil 1(ファウスト 第1部 1806) Gretchens Stube(グレートヒェンの部屋) Meine Ruh ist hin

(日本語訳:杉本知瑛子)

Meine Ruh ist hin,
mein Herz ist schwer;
ich finde sie nimmer
und nimmermehr.
・・・私の安らぎは去り、
・・・私の心は重い。
・・・それを私が再び見つけることはない、
・・・もう二度と。
Wo ich ihn nicht hab,
ist mir das Grab,
die ganze Welt
ist mir vergällt.
・・・彼のいないところは、
・・・私には墓場だ。
・・・世界中が
・・・私にはつらい。
Mein armer Kopf
ist mir verrückt,
meiner armer Sinn
ist mir zerstückt.
・・・私の弱い頭は
・・・狂ってしまった、
・・・私の哀れな心は
・・・こなごなに砕けた。
Meine Ruh ist hin,
mein Herz ist schwer,
ich finde sie nimmer
und nimmermehr.
・・・私の安らぎは去り
・・・私の心は重い。
・・・それを私が再び見つけることはない、
・・・もう二度と。
Nach ihm nur schau ich
zum Fenster hinaus,
nach ihm nur geh ich
aus dem Haus.
・・・私はただ彼を
・・・窓の外に見て、
・・・ただ私は彼のあとを追って
・・・家を出る。
Sein hoher Gang,
sein edle Gestalt,
seines Mundes Lächeln,
seiner Augen Gewalt,
・・・彼の気高い歩み、
・・・彼の尊い姿、
・・・彼の口もとの笑み、
・・・彼の目の力、
Und seiner Rede
Zauberfluß,
Sein Händedruck,
und ach! sein Kuß!
・・・そして彼の言葉の
・・・魔法の流れ
・・・彼の握手、
・・・そして、ああ!彼のキス!
Meine Ruh ist hin,
mein Herz ist schwer,
ich finde sie nimmer
und nimmermehr.
・・・私の安らぎは去り、
・・・私の心は重い。
・・・それを私が再び見つけることはない、
・・・もはや二度と。
Mein Busen drängt
sich nach ihm hin,
Ach dürft ich fassen
und halten ihn,
・・・私の胸は
・・・彼のもとへ迫りゆく、
・・・ああ許されることならば
・・・彼をこの手にとらえ、抱きしめて、
Und küssen ihn,
so wie ich wollt,
an seinen Küssen
Vergehen sollt!
・・・そして彼に口づけたい
・・・私ののぞみどおり
・・・彼のキスに
・・・この身が消え失せようとも!
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『ファウスト』のマルガレーテ(愛称グレートヒェン)には、ゲーテが1771年にシュトラスブルク(ストラスブール)で捨てたフリーデリケFriederike Brion (1752-1813) 、1772年フランクルフルト・アム・マインで、不義の子殺人のために公開処刑されることとなったマルガレーテ・ブラントSusanna Margarethe Brandtが投影されていると言われますが、少なくともこの詩には、ゲーテ初恋の人と言われるグレートヒェンが糸を紡ぐ姿も映し出されています。

彼女は1764年、ゲーテが14歳の時に思いを寄せた少女で、『詩と真実』Dichtung und Wahrheit (1808-1831) 第1部に描かれています。

ファウストは、メフィストフェレスの計らいにより、グレートヒェンと庭で甘美な時を過ごしましたが、彼女への愛と罪の意識に苦しみ、森林と洞窟で反省の日々を送っていました。そこへメフィストフェレスがやってきて、グレートヒェンの心情や行動を伝えます。それはこの詩に表れる、彼女の心でした。すなわち、グレートヒェンはファウストに捨てられたと思い、彼が忘れられず、苦しんで失望しています。ファウストは、グレートヒェンの甘い肉体を思い出させるな、と叫びますが、メフィストフェレスにそそのかされ、また愛欲にかられて、グレートヒェンのもとへとやってきます。そんなことを知らないグレートヒェンは、糸を紡ぎながらこの歌を歌います。

この詩は1行中の強音の数が2で、行を跨ぐ頭韻や同語韻、さらに、第1節AがABCADEFAGHと3度繰り返されることで、円形の糸車とその回転が表され、陰鬱で激情に満ちた詩句とともに、糸車の足踏みないし動悸を表すリズムが描かれています。敬虔で純粋なグレートヒェンが、ファウストによって灯された愛と愛欲の切なさを、日常の仕事ならびに恒久的な動きによって誠実を描く糸車の音にのって歌う、悲しくも激しい詩です。

なおグレートヒェンとファウストとのこの段階での関係は、「森林と洞窟」にも詩の中にも描かれているとおりで、妊娠という悲劇を引き起こす行為は、この歌の後に起こります。

「糸を紡ぐグレートヒェン」はシューベルト最初のゲーテ歌曲で、1814年10月19日に成立しました。3日前の1814年10月16日、シューベルトの故郷リーヒテンタールの教会で、彼のミサ曲ヘ長調 D 105 が演奏され、その時にソプラノソロを歌ったのがテレーゼ・グロープTherese Grob (1798 – 1875) という女性でした。

彼女はホルツアプフェル Anton Holzapfel (1792-1868) によると、全然美人ではなく、かなり太って、瑞々しく童顔で丸顔だったようですが、美しいソプラノの声で歌が上手だったようです。

シューベルトはミサ曲上演の夜、シラーの詩による「異国から来た少女」 Das Mädchen aus der Fremde D 117を作曲し、3日後の19日にこの「糸を紡ぐグレートヒェン」が成立しました。

その後数年の間に、驚くほどの歌曲がつぎつぎに生まれます。シューベルトにとって、これらの歌曲はテレーゼ・グロープへの愛の告白でもありました。

彼はアンゼルム・ヒュッテンブレンナー Anselm Hüttenbrenner (1794-1868) に「女性に全く関心がないのか」と尋ねられた時、「ぼくは一人だけ心から愛した人がいるし、彼女もそうだった」とグロープについて語ったということです。

「糸を紡ぐグレートヒェン」の激しさに、シューベルト自身の恋情がこめられていることは言うまでもありません。この曲は1821年に作品2として出版されました。

一般に「糸を紡ぐグレートヒェン」の成立は「ドイツリートの誕生」と言われますが、すでに「潜水者」Der Taucher D 77 (1815)はじめ多くの名曲があったにもかかわらず、この曲がそう言われるにふさわしい理由は何でしょうか。

1817年にネーゲリHans Georg Nägeli(1773-1836)は、当時のリート芸術の理想として、ポリリズムPolyrhythmieを提唱しました。これは,詩と歌と楽器(ピアノ)のリズムが高度な芸術となって重なり合い、複リズムを構成することで、それによって言語表現が音楽と調和しながら芸術的に昂揚されることです。

詩と歌の旋律とピアノの旋律が、それぞれ独立しながら、ポリフォニーのように重なり合うこと、このことをすでに1814年、17歳のシューベルトが、この「糸を紡ぐグレートヒェン」で達成していたのです。

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《参考1:杉本知瑛子著 シューベルト~その深淵なる歌曲の世界1‐①》

シューベルトが初めての交響曲を書いたのは16歳の時で、その一年後の1814年10月19日には、私の愛してやまない情熱的な歌曲、「糸を紡ぐグレートヒェン」(D.118)”Gretchen am Spinnrade”が作曲されている。(またその翌年には傑作「魔王」(D.328)”Erlkönig”が誕生している。)

余談であるが、シューベルトの少年時代の恋人(ただ一度の恋の対象相手)は彼と同じウィーンの郊外リヒテンタールに住む、テレーゼ・グローブという可愛いソプラノの声の持ち主であった。

1814年10月16日、リヒテンタールの教会で、シューベルトの四声、オルガンとオーケストラつきの最初のミサ曲ヘ長調が演奏された。シューベルトが指揮をし、テレーゼがソプラノのパートを歌った。その時、シューベルトは17歳、テレーゼは16歳であった。

この作品は熱狂的に支持され、ついでウィーンのアウグスティン教会でも演奏され、喜んだ彼の父親は息子にピアノをプレゼントした。が、彼女の父親はテレーゼときっぱりと手を切らせた。

ゲーテのファウストを題材にした「糸を紡ぐグレートヒェン」は、この最初の演奏会から3日後に作曲されている。
幸福の真っ只中の作品のはずが、この曲の演奏を聴いた人が“恋しい人への想いに胸が詰まる、自然に涙が溢れてくる・・・”と流れる涙をぬぐいもせず、一心に聞きいる姿は、恋のために、産まれた赤ん坊を殺し、母親を殺し、狂気となって、暗い牢獄に閉じ込められ死んでいく少女の、哀れな恋への予感か、『水車小屋の娘』から『冬の旅』へと続く、恋する男の生への執着と諦めと葛藤をテーマにした、壮絶なる作品への予兆を感じてのことか・・・
はたまた自身の青春時代への回想か・・・

(テレーゼは両親の勧めに従い、金持ちが取り得だけのパン屋の主人と1820年に結婚した。)

シューベルトの作品の出版者、ヒュッテンブレンナーは、シューベルトが彼女と絶縁した後の1821年にこの哀れな求愛者と恋人の物語りについて、次のように打ち明けてくれたと述べている。

“彼女は3年間、僕と結婚することを願っていた。しかし、僕には二人が食べていける職場を見つけることができなかった。彼女はそうこうするうちに両親のいうとおり他の人と結婚してしまい、僕はひどい痛手を受けた。僕は依然として彼女を愛している。それ以来、彼女より気立てがよく、気に入った女性はいなかった。だが、多分彼女は僕に与えられるものではなかったのだろう。”

(シューベルト、1815年暮:ライバッハの教職を希望するが失敗に終わる。)

~初恋とは、本心から愛する時だけのただ一度きりの恋であって、次の恋は前ほど自発的なもの
ではないのである~(ラ・ブリュエの言葉:フランスの小説家)

全文はこちら:シューベルト~その深遠なる歌曲の世界~1-①

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《参考2:Wikipedia より》

ファウスト 第一部』(ファウスト だいいちぶ、Faust. Eine Tragödie もしくは Faust. Der Tragödie erster Teil )は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによる悲劇戯曲。『ファウスト』2部作の第一部。1808年に発表。

*天上の序曲

天使たち(ラファエル、ミカエル、ガブリエル)の合唱と共に壮麗に幕開けられた舞台に、誘惑の悪魔メフィストフェレス(以下メフィスト)が滑稽な台詞回しでひょっこりと現れ、主(神)に対して一つの賭けを持ち掛ける。メフィストは「人間どもは、あなたから与えられた理性をろくな事に使っていやしないじゃないですか」と嘲り、主はそれに対して「常に向上の努力を成す者」の代表としてファウスト博士を挙げ、「今はまだ混乱した状態で生きているが、いずれは正しい道へと導いてやるつもりである」と述べる。メフィストはそれを面白がり、ファウストの魂を悪の道へと引き摺り込めるかどうかの賭けを持ちかける。主は、「人間は努力するかぎり迷うもの」と答えてその賭けに乗り、かくしてメフィストはファウストを誘惑することとなる。

*第一部

ファウストが悪魔メフィストと出会い、死後の魂の服従を交換条件に、現世で人生のあらゆる快楽や悲哀を体験させるという契約を交わす。ファウストは素朴な街娘グレートヒェンと恋をし、とうとう子供を身籠らせる。そして逢引の邪魔となる彼女の母親を毒殺し、彼女の兄をも決闘の末に殺す。そうして魔女の祭典「ワルプルギスの夜」に参加して帰ってくると、赤子殺しの罪で逮捕された彼女との悲しい別れが待っていた。

(ファウストは母親を眠らせて夜を一緒に過ごそうと、娘に眠り薬の入った薬瓶を渡して殺させる。また、グレートヒェンはファウストとの間に産まれた赤ん坊を深い海に沈めて殺してしまう。それで投獄された彼女は気が狂った状態で歌うのが、ボイートのオペラ『メフィストフェレ』のアリア「深い海の中へ」である。)

*あらすじ

1、ファウスト博士と悪魔メフィストーフェレスの契約

ファウストは、博士を取得した学者であった。彼はあらゆる知識をきわめ尽くしたいと願い、当時大学を構成していた哲学、法学、医学、神学の四学部すべてにおいて学問を究めるが、「自分はそれを学ぶ以前と比べて、これっぽっちも利口になっていない」と、その無限の知識欲求を満たしきれずに歎き、人間の有限性に失望していた。

そこに悪魔メフィストが、黒い犬に変身してファウストの書斎に忍び込む。学問に人生の充実を見出せず、その代わりに今度は生きることの充実感を得るため、全人生を体験したいと望んでいるファウストに対し、メフィストは言葉巧みに語りかけ、自分と契約を結べば、この世の日の限りは伴侶、召使、あるいは奴隷のようにファウストに仕えて、自らの術でかつて誰も得る事のなかったほどの享楽を提供しよう、しかしあの世で再び会った時には、ファウストに同じように仕えてもらいたいと提議する。もとよりあの世に関心のなかったファウストはその提議を二つ返事で承諾し、“この瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい!”(“Verweile doch! Du bist so schön.”)という言葉を口にしたならば、メフィストに魂を捧げると約束をする。

2、ファウストの恋とその顛末

悪魔メフィストはまずファウスト博士を魔女の厨(くりや=台所のこと)へと連れて行き、魔女のこしらえた若返りの薬を与える。若返ったと同時に旺盛な欲を身に付けたファウストは、様々な享楽にふけり、また生命の諸相を垣間見ながら、「最も美しい瞬間」を追い求めることになる。彼が最初に挑んだ享楽は恋愛の情熱であった。魔女の厨(くりや)で見かけた魔の鏡に、究極の美を備えた女性が映るのを見たことから、ファウストはひたすらその面影を追い求め、街路で出会った素朴で敬虔な少女マルガレーテ(通称グレートヒェン)を一目見て恋に落ちる。

彼はメフィストに、グレートヒェンに高価な宝石を贈らせるなどして仲を取り持たせ、ついには床を共にする。しかしある夜、風の便りに妹が男性と通じている事を聞きつけたグレートヒェンの兄ヴァレンティンとファウスト・メフィストの二人連れが鉢合わせし、決闘となる。そうしてファウストはヴァレンティンを手に掛ける。

3、ヴァルプルギスの夜

一時の気晴らしに悪魔メフィストはファウスト博士を魑魅魍魎(ちみもうりょう)達の饗宴、ヴァルプルギスの夜へと連れて行く(この乱痴気騒ぎの描写には作者ゲーテの豊富な知識と筆の力量が垣間見られ、また『夏の夜の夢』のパック、『テンペスト』のアリエルらも登場する)。ファウストはメフィストによってあらゆる魔女や妖怪達の中を引き回されるが、そこで首に”赤い筋”をつけたマルガレーテ(グレートヒェン)の幻影を見て彼女に死刑(斬首刑)の危機が迫っていることを知り、メフィストがそのことを隠し立てしていたと激怒する。実はグレートヒェンはファウストとの情事により身籠っており、彼の不在のうちに産まれた赤ん坊を持て余した末、沼に沈めて殺してしまっていた。そうして、婚前交渉と嬰児殺しの罪を問われて牢獄に投じられたのであった。

4、悲劇の結末

ファウストはメフィストと共に獄中のグレートヒェンを助けに駆けつける。しかし、気が狂ってもなお敬虔な彼女は、ファウストの背後に悪魔(メフィスト)の影を見出して脱獄を断固として拒否する。ファウストは罪の意識にさいなまれて絶望し、“O, wär’ ich nie geboren!”(おお、私など生まれてこなければ良かった!)と嘆く。メフィストは、「彼女は(罪びとであるとして)裁かれた!」と叫ぶが、このとき天上から「(そうではなく彼女は)救われたのだ」という(天使の)声が響く。ファウストはマルガレーテをひとり牢獄に残し、メフィストに引っ張られるままにその場を去ってゆく。

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