杉本16)世阿弥と福澤諭吉(1)・・・20号  

     「世阿弥と福澤諭吉」(1)

                          杉本知瑛子H.9、文(美・音楽)卒

世阿弥(1363~1443)とは、日本の古典芸能に興味の無い人でも名前くらいは聞いたことがあるであろう、現代の日本人には難解な哲学のような古典芸能を父・観阿弥(1333~1384)と共に親子二代で大成させ、その芸術論を著し現代にまで伝えた能役者であり、美学者とも言える人物である。

能とは、「謡=謡曲」と「仕舞=能などでの演舞」に「囃子=笛、太鼓、鼓、など」が加わり、演じる物語に相応しい役の能面をつけ、シテ(主役)、ワキ、ワキツレ、(地謡≒合唱)等が能舞台で演じるものであるが演者はすべて男性である。

(もちろん現代では女性能楽師も存在する。:1948、女性の能楽協会加盟が認められる。2004、日本能楽協会への女性の加盟が認められる。)

*「能」と「能楽」の区別は紛らわしいが、日本の重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されているのは「能楽」である。「能楽」とは、式三番(翁)を含む能と狂言を包含する総称である。

このような室町時代に生きた世阿弥と福澤先生を比較して、一体何を発見することができるであろうか?簡単に考えれば、両人とも戦乱の世(古い時代)から新しい時代に移行した時期に生まれた文明(文化)の開拓者であり、その目指す目的のために著書を多く残し、その著作・思想が現代にまで続いているということである。

福澤先生は中津藩下級武士の子として生まれ、世阿弥は大和猿楽(申楽)一座の座長・観阿弥の子として生まれた。

先生が「門閥制度は親の仇で御座る」と後年に著した『福翁自伝』で述べておられるように、「封建制度に束縛されて何も出来ず、空しく不平を呑んで世を去った父の苦しさ」を思った先生が選ばれたのは、学問の道であった。とはいっても学問らしきことを始められたのは14~5歳からである。

世阿弥は観阿弥の子として1363年に誕生した(幼名:鬼夜叉、藤若=二条良基より贈られた名、通称:三郎、実名:元清、法名:世阿弥陀仏)。その時父観阿弥吉次は31歳(数え歳)、この頃大和猿楽の有力な役者であった観阿弥は結城座(大和猿楽の一座=現在の観世流能)を創立する。

観阿弥が今熊野で催した猿楽能に12歳(数え歳)の世阿弥が出演した時、将軍足利義満の目にとまり、以後観阿弥・世阿弥親子は義満の庇護・寵愛を受けるようになる。

(1378年祇園会で、将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびたようなこともあった)

1384年観阿弥(52歳:数え年)が没して、世阿弥は観世太夫を継ぐ。世阿弥22歳(数え歳)の時である。

ちなみに、足利尊氏が京都室町に幕府を置き政権を握ったのは1336年であり、世阿弥の父観阿弥の生きた時代は動乱の時代から足利将軍家による天下統一のころである(1392年、南北朝合一)。

足利幕府という政治的な事件と、能の結城座(現在の観世流)という芸術上の事件は、このような乱世の中から現れてきたのである。これらはその後具体的に結びつき、さらに実質上の最盛期を同じような時期に終わっている。能の大成は観世父子の2代によって成し遂げられたようなものだが、その半世紀は一つの政治的時代の熾烈な燃焼と重なり合っていたと言っても過言でない。

(注)

能楽:日本の伝統芸能。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。

江戸時代までは猿楽(申楽)と呼ばれていた。

1881(明治14)「能楽社」の設立を機に「能楽」と称されるようになった。

明治に入り、江戸幕府の式楽の担い手として保護されていた猿楽の役者達は失職し、猿楽という芸能は存続の危機を迎えた。岩倉具視をはじめとする政府要人や華族達は、資金を出し合い「能楽社」を設立し、芝公園に「芝能楽堂」を建設した。以後「猿楽」という言葉は「能楽」という言葉に置き換えられた。

西洋でも東洋でも中世の芸能者がいかに蔑まれ、社会的に低い地位につけられたかは広く知られている。日本でも古くから遊芸人は「七道の者」と一括され、正業を持たぬ乞食・非人と同様の扱いを受けていた。

~世阿弥が将軍義満の寵愛を受けるようになっても、当時の公家達の目には「此くの如き散楽(さるがく)の者は乞食の所行なり」(三条公忠著『後愚昧記』)と映っていた。~

そのような時代(室町時代初期)に世阿弥の父観阿弥は、農民層を相手に細々と興行していた猿楽を一躍表舞台の芸能に引き上げ、又いろいろな試みを通じて、その芸術性を飛躍的に高めたのである。

〔観阿弥による改革〕

*曲舞(くせまい)の節を取り入れて、大和音曲というものを生み出した。

(曲舞の節を取り入れることで、大和猿楽は幽玄さを備えるようになる)

*曲舞の節を採用するにとどまらず、能楽の中に「クセ」という部分を入れ、そこで新しい音曲による立舞を演ずるようにした。これが、大和猿楽にいっそうの幽玄さを付け加えた。

*自分で新しい曲をいくつも作った。

(自然居士、卒都婆小町、百萬、吉野静、等)

〔世阿弥の「夢幻能」とは違い、回想の中でフラッシュ・バックすることはない。〕

当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。

世阿弥は観客である彼等の好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていった。一般に猿楽者の教養は低いものであったが、世阿弥は将軍や貴族の庇護を受け、教養を身に付けていた。(特に、摂政二条良基には連歌を習った。このことは後々世阿弥の書く能や芸能論に影響を与えている。)

義満の死後も世阿弥はさらに猿楽を進化させていく。『風姿花伝』『至花道』が著されたのはこの頃である。晩年は迫害を受け長男観世元雅は伊勢安濃津にて客死(1432年)、世阿弥も1434年佐渡国へ流刑となる。

著書『風姿花伝』(『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。

“少年は美しい声と姿を持つが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は芸の花についての工夫(修行)から生まれる。「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。               (続)

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