杉本17)世阿弥と福澤諭吉(2)・・・21号
「世阿弥と福澤諭吉」(2)
杉本知瑛子(H.9、文〈美・音楽)卒)
著書『風姿花伝』(『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。
“少年は美しい声と姿を持つが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は芸の花についての工夫(修行)から生まれる。「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。~「世阿弥と福澤諭吉」(1)より~
さて、今回は前回に少しふれた『風姿花伝』について考察してみたい。
日本が世界に誇れる古典芸能の奥義を記したといわれる書物であるが、その内容は能楽のみでなく現代のあらゆる芸術、芸能、文芸等に役立つものと考えられる思想であり、現代の美学とも称することのできる内容である。
福澤先生の思想は「時事新報」の発刊、現代では「慶應義塾大学」“福澤研究センター”の活動と「交詢社」(現在の三田会活動に準ずる)活動と共に、『学問のススメ』『福翁自伝』等読みやすい一般向けの書物により、福澤先生の名と業績を全く知らないという日本人は皆無であろう。
しかし、世阿弥については能楽が世界に認められる文化遺産であるのにもかかわらず、世阿弥が記した多くの著作物の内容は一般に知られていない。もちろん能楽の流派の中で研究はされてはいるのであろうが、お能(謡や仕舞)を習った所で一般人には、先生(能楽師)の物まねをするだけで、何も教えられることはない。・・・自分で専門書を探して読むだけ?である。
なぜか?
「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」という流派内の秘伝とされている所以であろうかと考えられる。
現代においては、現代語訳にされた書物が公開され『日本の名著10』(中央公論社)にも収録されているが、ソクラテスやプラトンと同じく、名前くらいは知っているが内容は・・・、という人が殆どであろう。
『風姿花伝』とは、世阿弥が残した21種の伝書のうち最初の作品である。
亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法、心得、演技論、歴史、能の美学など世阿弥が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている。
全7編あり、成立は15世紀のはじめ頃。(最初の3つが1400年、残りはその後20年くらいかけて執筆・改定)
日本最古の能楽論の書であり、日本最古の演劇論でもある。また日本の美学の古典ともいえる。
以下に内容を簡単にまとめてみた。
『風姿花伝』
序:~能は由緒正しい芸能であるから~決して芸の伝統的な風格を無視して、邪道に陥れてはならない。
~日ごろの言動においても品格があって、姿も優美な人を、優れた演技者としての才能を備え、伝
統を正しく継承している達人と言うべきではなかろうか。~
さて、この書に自分が若い頃より見聞した稽古の心得の大要を記すものである。
一、好色・博打・大酒。この三つは厳重な禁戒であり、先覚の定めた掟(おきて)である。
一、稽古に対しては徹底して厳しくなければならない。
しかし、人間としては頑なであてはならない。
第一 年来稽古(各年齢に応じた稽古のありかた)
七歳
能の稽古はだいたい七歳ではじめる。~
子供の持っている長所がなにげなく表れるが、その良さを伸ばすためには、その子供のしたいままにやらせるのがよい。~こまかに教えるべきではない。あまりきびしく注意すれば、子供はやる気を失い、能に嫌気がさしてしまい、上達が止まる結果となる。
~また、晴れがましい舞台での最初の出し物を子供に演らせるべきではない。~
十二・三歳より
~順次さまざまな技術や曲数を重ねて教えるべきであろう。~
まず第一に、少年であるから、姿は優美であり、声も少年らしい美しい声の出る時期である。
~概して、子供の演ずる能には、大人びた手の込んだ物まね(役に扮する演技)などはさせるべきではない。しかし、よほど技術が秀でてきた場合は、その少年の演ずるままにまかせてもよいであろう。姿の可愛らしさと、声の美しさとが揃い、そのうえ、上手であるならば、少年の能は、どうして悪いはずがあるだろうか。しかしながら、この花(舞台上の魅力)は、修行を積み重ねた真実の花ではない。
ただ、この年ごろにのみ開きうる一時的な花にすぎない。~したがってこの時期の舞台の魅力は、それが役者としての生涯を決定しうる、評価の基準にはならないのである。
この年ごろの稽古は、少年の素質や美しさをのびのびと生かして、この時期の美しい花を咲かせる一方で、基本的な技術を大事に稽古しなければならない。~
十七・八歳より
この年ごろは、あまりに重大な時期なので、多くの稽古を望んでも無理である。
まず、変声期に入るので、十二・三歳のころにあった第一の花は失せてしまう。~この頃の稽古は、もし他人に嘲笑されるようなことがあっても、そんなことは気に掛けず、声の出しうる範囲の音程で、朝といわず夜といわず、たゆまず稽古し~強い信念を持って、能から離れないようにしている意外、稽古の方法はない。
二十四・五歳
この年ごろは、一生涯の基礎を固める最初の時期である。~変声期を過ぎて、本格的な発声をしうるようになり、体格も定まり、すっかり大人になる時期である。~若く美しい声と姿態がはっきりと身についてくる。若々しい感覚の能が生まれる時期である。~若い演者の新鮮な美しさが、名人と言われた人との競演にも、その名人を凌ぐほどの評判を得ることがあったりすると、世間の人は実力以上に評価し、また演者自身も、自分はかなりの上手だと思い始めたりするものだ。~ここで賞賛された芸は「まことの花」(優れた技術、豊かな見識を兼ね備えた人の芸によって咲かせる花)ではない。若々しい演者の声や姿態から発散する表面的な美しさであり、それを観客が珍しいと感ずる一時的な魅力にすぎない。~このころに咲かせる花こそ、初心の美しさと考えるべきなのに、本人は思いあがって能を極めつくしたように考え、早くも能の正しいありかたからはずれた勝手な理屈をこねまわし、名人気取りで異端な技をするのは、あさましいことだ。~つまり、「一時的な花」を「まことの花」と思い込む自惚れこそ、真実の花からなおさら遠ざかる原因となる。~演技者としての自分の芸力に対して客観性を持ちえたならば、ある時期に身につけた花は、生涯失せはしない。自分を見つめる力が無く、思いあがった考えで、自分の力量以上に上手な演者だと思ってしまうと、もともと持っていた芸力の魅力さえも失うことになる。~
三十四・五歳
~この年ごろの能は、一生の内の、もっとも華やかな絶頂である。~もし、この年ごろになって、あまり世間にも認められず、名声もそれほどでないとすれば、どんなに技術的に上手であっても、まだ、「まことの花」を極めていないと自覚すべきである。三十四・五歳までに、「まことの花」を身につけ得なかったことが、四十歳以後の芸の上にはっきり現れてくる。芸の下降は四十歳以後に始まるからである。~
四十四・五歳
~かならず優秀な後継者を一座の中に持つようにしなければならない。~この年ごろからは、身体を使ったあまりこまかな演技はしない方がよい。~技巧的な、身体を激しく動かすような演目はするべきではない。
五十歳以上
このころからは、おおかた何もしないという方針に則る以外術はなかろう。~しかしながら、本当に能の真髄を体得した、すぐれた能役者であるならば、過去において得意としてきた多くの演目の大部分が肉体的な条件などによって演じられなくなり、また、どんな役を演じた場合でも、観客をひきつけるような外面的な見せ場が少なくなっても、いぜんとして或る芸の魅力は残るであろう。
亡父(観阿弥)は、五十二歳の五月十九日に死去したが、その月の四日、駿河国浅間神社の神前において、能を奉納した。その日の彼の能は、特に華やかで、すべての観客は一様に褒め讃えた。~年相応に、やすやすと演じられる曲を内輪に控えた演戯で、しかも、演出には工夫をこらして演じたが、その芸の魅力はますますみごとに見えたのである。
これは、ほんとうに身につけた芸の魅力があったからで、その能は枝葉が少なくなった老木のように、表面的な派手な面はなくなっても、美しい花の魅力は残って咲き匂っていたのである。亡父のこの例こそ、実際に、老年に至るまで持ち続けた花の証拠である。
以上が、年齢の各段階における稽古のありかたである。(「第一 年来稽古」より抜粋)
第二 物学(各役に扮する演戯の方法)
物学(ものまね:役に扮する演戯)の種類は~
女~・老人~・直面(ひためん:面をかけない役・今の能では現実に生きている男性の役)~、物狂い~、
法師~、修羅~、神~、鬼~、唐事(異国人の役)~、について説明されている。
(注)物狂い・・・物狂いは、能の中で、もっとも面白さの限りをつくした芸能である。その中にさまざまな種類があるから、この物狂いを全般にわたって修得した演者は、あらゆる面を通じて、幅の広い演戯を身につけられるであろう。~(「第二 物学」より)
物狂いは能だけでなくオペラやリートでも重要な要素となっているので、詳細は次回に述べたい。