杉本13)天才と凡人(4)・・・(16号)
「天才と凡人~学問研究に対する姿勢~(4)」
杉本 知瑛子(H.9、文・美卒)
「私が中川先生の偉大な特徴(天才性?)として注目していることに、先生の驚くべき人脈がある。」と前回述べたがその人脈作りの方法とは・・・
最大理由は「近衛秀麿氏を後見人として共に洋行されたことである」とのこと。
(そう伺っただけでは納得できず、質問・質問・質問と納得できるまで・・・悪い癖がでた)
もちろん、近衛氏と同行なので世界最高の権威とされている方々から指導を受けられたのであるが。
しかし、本当に重要な話はそこからであった。
1、その世界的権威の先生のもとには、当然世界中から優秀な音楽家が教えを受けるために弟子入
りしている。そこで勉強していた兄弟弟子が有名となり、後に親友や友人となられた方々が
世界中におられたらしい。
(ミラノ時代の発声の先生であるチェッキ先生の兄弟弟子としてのマリオ・デル・モナコ氏
などの話はよくされていた)
2、有名国際コンクールの審査員としていろいろなコンクールを十数か所(日本代表というより
その当時はアジア代表のようで、まだ先進国の一員としてではなく開発途上国としての日本を
背負って毎年半年位はヨーロッパに滞在されていたそうである)、コンクールからコンクール
へと同じ審査員方と行動を共にされていく内に、一日本人(アジア人)としてではなく対等な
音楽家として審査員方(世界の権威の集まり)と親友となっていかれたそうである。
外国の方と親友付き合いが出来るためのご努力は凄まじいものであったという話は以前述
べたことがあるが、日本料理はもとより味噌、醤油に至るまで一切口にはなさらず(日本人=
アジア人=開発途上国人と認識されてしまう)、ヨーロッパではご友人方と全く同じ西洋料理
を頂かれていたのである。
風邪の予防さえもその方々と同じハーブティーを使われていたそうである。
日本ではまだハーブという言葉さえなかった時代である。私がレッスンに伺った時、ハーブや
花粉など身体にいいものをいろいろ教えてくださったが、そのころはなんと奇妙なものを!と
思っていたものである。
先生の書棚にイタリアの気候風土、歴史の本が沢山あったのは納得である。
「音楽史なら、イタリアの音楽史を直接見るほうがいいんです。日本で言う音楽史はドイツ語
の原書をもとにしているから、イタリアから学んだり伝わったりしているはずの音楽が、いつ
の間にかドイツが音楽を開発して、発見してと・・・。
イタリアで学ぶ音楽史というのは、メソポタミアの時代から始まって、そういう歴史を本当に
辿った所からはじまって、その時代の人たちがどういうコスチュームを着ていたとか、エジプ
トではどういう形や彫刻の家具を使っていたとか、ギリシャではこう、メソポタミアではこう、
そういうところから始まるんです。
オペラのもとはギリシャ悲劇ですからね。」
こんな話をして下さる声楽の先生が日本に存在されていたということが奇跡である。・・・
止まれ!本題に戻ろう。
3、南京総司令部参謀付幕僚として滞在された上海での日本の音楽家たちとの交流。
昭和18年、南京総司令部参謀付幕僚であり、且つ報道部の将校となり上海に赴任された。
*当時の上海は各国の大使館や領事館が集まっていて、外国人が居留地区を管理していた、
世界一の国際都市であった。
(中川先生はイタリア語、ドイツ語、英語、ロシア語、フランス語、中国語などがお出来になり、
又外国滞在経験があったために、召集将校にも関らず上海赴任命令が下されたそうである)
上海交響楽団(世界に誇れるレベルのオーケストラ:20~30年前イギリスの法務局がイタリア
のオーケストラをそのまま、家族ともども上海につれてきてつくったもの)で、(その当時指
揮者死亡で不在のため)中川先生は指揮者として、毎週土曜日に定期演奏会で指揮をされた。
また、大学(京大オーケストラで活動)を出たばかりの朝比奈隆氏(終戦後、関西交響楽団
創設)を指揮者として呼び寄せられたり、服部良一氏、白井鉄造氏(宝塚)、小牧正英氏(終
戦後、小牧バレエ団創設:上海ではじめて未経験のバレエを踊り始める)など文化人や作家や
芸能人など80人位を招聘された。
この時代に先生に世話をされた方々が終戦後の日本で音楽文化の中心的な役割を果たすのである。
4、その他
*ベルリン時代の交流
斉藤秀雄(チェロ)、喜志康一(バイオリン)、木下保(1903~1982)(東京芸大;短期留学生)、
奥田良三(1903~1993)
*ミラノ時代の交流
三浦環(1884~1946)、藤原義江(1898~1976)、原信子(1893~1979)、関屋敏子(1904~1941)、
渡辺光(声楽家:大山巌元帥の孫)、吉田茂(当時の在イタリア日本大使)、
*バイオリニスト鰐淵賢舟(1910~1986)氏(女優鰐淵晴子さんの父上)との交流。
1934年(昭和9年)、ベルリンからミラノ、アメリカを回って日本に帰られた頃、鰐淵賢舟氏
もウィーンから帰って来たところで住む所が無いということもあり、青い目の美しい奥さん
と共に京都の中川先生の家で一年ほど暮らすことになる。
鰐淵賢舟氏の帰朝演奏会は(京都朝日会館の杮落とし)中川先生のプロデュースで開催された。
*世界的なオペラ歌手との交流・・・モナコ、テバルディ、シミオナート、等とはご親友。
ラヴェル、ジョルダーノ、トスカニーニ、等とはご親交があった。
明治、大正から昭和の激動の時代、日本の音楽の歴史はどのような変革を遂げていったであろうか。
昭和11年(1936年)2・26事件以後日本は戦争への道を突き進んだ。
日本国内では軍歌しか演奏できない西洋音楽の暗黒時代にも、先生は吹奏楽団を組織し円山公園の音楽堂で土曜日ごとにコンサートを開催された。(官憲に刃向かうのではなく国策に沿う形で「軍艦マーチ」の時代に「ラヴェルのボレロ」や「アイーダ」や「ウイリアム・テル」などを演奏された)。そして国民の意思を統一して士気を高めるために吹奏楽連盟や合唱連盟も作られた。
しかし、活躍の場を失っていた若き日本の芸術家たちは、先生(軍部)からの招聘により上海という地に移り自由な西洋音楽の牙城を守りぬいていたのである。 (続)