杉本14)天才と凡人(5)・・・(17号)

    「天才と凡人~学問研究に対する姿勢~(5)」

                          杉本 知瑛子(H.9、文・美 卒)

「天才とは天性の才能である。」(広辞苑より)

結果だけを見て、凡人には想像も出来ないことを成し遂げる人間を私達は単純に天才と呼んでしまう。拙文初回(1)の冒頭に述べた言葉である。

「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」

天才についてのエジソンの有名な言葉であるが、ここで言われている努力とは何だろうか?

可能な限りの知識や技術の習得?・・・知りえる限りの知識や情報を駆使しての研究?

フィギュアスケートの羽生結弦さんは誰もが認める現代スケート界の王者である。

その演技は超絶な技巧を駆使したものでありながら“空から天使が舞い降りてきた”かのような優雅さで、それは神の領域、異次元の演技と賞されている。

(2015年NHK杯演技やグランプリファイナルでの演技に対して)

しかし、そこでは誰からも天才と言う賛辞は一度も聞かれなかった。

それは全ての関係者が、その異次元とも言える演技を、彼のコーチ、ブライアン・オーサー氏が、「勝つ」ために明確な戦略をたて、羽生選手が血のにじむような努力をした結果である、と知っていたからであった。

選手が一人でいくら血反吐を吐くくらいの努力をした所で結果が伴うとは限らない。優秀なコーチがあらゆる知識や情報を元に、その選手に可能且つ明確な戦略を立てて初めて選手の努力は得点へと結実するのである。

私は試合後の彼(羽生結弦さん)の言葉が忘れられない。

たしか「カナダ戦以後、今までしたことがないようなそれこそ血の滲むような練習をしてきました。~そのような練習をさせて頂けたことをコーチをはじめ関係者皆様に心から感謝します」だったように思う。

20歳の若者が成しえた演技はそれこそ天才のみが到達しえるような演技であったが、しかしその才能を花開かせるためには天性の能力以外に99%の努力(本人の努力だけでなくコーチやその他の関係者の総合的な助力も含めて)が必要だったのである。

話は戻る。福澤先生と中川先生の重要な共通点として「洋行」と「外国語の習得」が挙げられる。

江戸時代から明治にかけて英語のできる人間は殆どいなかった。貧しい下級武士の福澤先生が三度も洋行して世界の文明を見聞できたのは、英語に着目し習得されたゆえであった。

中川先生が28才でドイツとイタリアに行かれることができたのは、近衛家と親戚付き合いをしておられたご両親のお陰であるが、第二次世界大戦中に召集将校(最初は少尉)でありながら、いきなり南京総司令部参謀部付幕僚兼報道部の将校(支那派遣軍総司令部参謀付幕僚及び上海陸軍報道部スポークスマン)として上海での日独伊外交を遂行されたのは、“英語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、中国語が出来、かつ外国に滞在した経験がある者”という理由によるものであった。

それまでテノール歌手としてはイタリアやアメリカで活躍されていたが、総司令部参謀付幕僚として上海での日本人芸術家や芸能人、文化人、作家、等(80名位)の招聘により、先生の戦後日本での人脈は多分野に及ぶことになったのである。

さらにもうお一人、慶應一の天才的頭脳の持ち主と学内で噂をされておられた慶應の教授(故)三浦和男先生(哲学者:元慶應義塾理事、元慶應通信教育部長)の天才性も忘れてはならない。

お若くして亡くなられたが、生前“天才と言われる方の頭脳の構造はどうなっているのですか”と伺ったことがある。お偉い先生にとんでもない質問をしてしまったものであるが、先生は丁寧にお答えくださった。

「僕は天才なんかじゃないよ。確かに語学では20ヶ国語近く話せるし論文程度なら全ての言語で読める。しかしそれは誰でもやればできることだ。例えば英語が完全にできていれば、ヨーロッパ圏の言葉はスペイン語でもフランス語でもイタリア語でも、一日二時間くらいの勉強で一ヶ月もあればマスターできる。

それは特殊な能力ではなく、他国の言語を日本の方言のような感覚で捉えて勉強すればいいんだ。

全てを全く別の言語として勉強すれば恐ろしいくらいの時間と労力がいる。英語や日本語と文法や文字の異なるロシア語や中国語、サンスクリット語、等は僕でも2ヶ月位はかかったよ。」とのご説明であった。「1ヶ国語が1~2ヶ月でマスターならそれはまさしく天才です!」と驚くと「違う!

やり方だ!」とたしなめられた。

すぐに洗脳されてしまう単純頭脳の持ち主である私はそのまま納得して、“天才というのは自分の持つ基礎知識をどのように組み立てて使うか、だけで決まることなのだ。それで、無知か又は知識のみで応用力の乏しいような人が天才という言葉をつくるのだ”と思うことにした。

しかしその後(10年くらい後だったろうか)、「人間とは何か」という先生の講義で基礎知識の応用(組み立て方)というのが、いかに凡人にとって困難なことなのかを知ることになるのであるが。

音楽の世界では才能と言う言葉がよく使われる。ピアニスト、バイオリニスト、オペラ歌手・・・特殊な演奏技術を必要とするものは、高額な楽器と幼少時よりの個人レッスン受講という現代でも一般人には高いハードルがある。ピアノなどはバイエル(初級用教材)が両手弾けるだけで一般の人は“すごい!”と言いソナタなぞ弾こうものならもう大天才であった、そんな時代が昭和にさえあったのである。敗戦後、寄せ集めの楽団でオペラをやっても、オペラというものを見たことも聞いたこともない人々にとっては、一流音楽家によるオペラ公演と同じようなものであった筈である。

他の人から見て天才とは多くの場合そのようなものかもしれない。

福澤先生が初めて白石先生のところで漢学を学んだ時の凄まじい勉強量は天才的なものであったといえるであろう。しかしそのようなことは慶應の先生方でも出来る方はやっておられる。

自分の周りの人々にとって出来ないことができるだけで、天才であるのか?努力さえすれば天才に近づけるのか?エジソンの言う“1%のひらめき”これはそれこそ血の滲むような努力の連続があって初めて生じる可能性があるものであろうし、まさしく“1%のひらめき”は“神の降臨”と言えるものであろう。

イタリアではオペラのプリマドンナは“Diva”(女神:日本語訳では歌姫)と呼ばれている。

音楽における天才とは、神の国(異次元世界)に遊ぶ(存在する)者(天女・天使)なのである。

(続)

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