杉本12)天才と凡人(3)・・・(15号)

        「天才と凡人~学問研究に対する姿勢~(3)」

                       杉本 知瑛子(H9、文)

 「上品な紳士がつかつかと楽屋に来られ、誰だろう、見たことがある人だが、と思っているうちに、以前からの知己という感じで近寄ってこられた。その言葉の中にこもっている気持ちの細やかさ、それに握手したときの、こちらの手を包んでしまうような大きさと、柔らかく温かい感じが本当に印象的だった。あとで、佐々木真さん(京大理学部物理学科出身:東京交響楽団のフルート奏者)にそっと訊くと、「あれが、中川牧三先生ですよ」と教えてもらい、年齢を知って、あっと驚いた。ダンディですっきりとしたさわやかさをもつ、あの人が100歳近いのか!というわけである。」

河合隼雄氏(京大理学部数学科出身・京大名誉教授・臨床心理学者・元文化庁長官・フルート奏者)

が中川先生とはじめてお会いになった時の印象をこのように記述されている。

(『101歳の人生をきく』中川牧三:河合隼雄、共著、講談社)

「~親しくおつきあいをさせていただく間に、先生ご自身や周囲の人たちから聞く話の内容は驚くべきことばかり。佐々木さんが“いま朝比奈隆先生(まだ、ご存命中だった)を、『朝比奈君!』なんて呼べるのは、中川先生くらいですよ”といわれたが、なにしろ朝比奈先生を戦争中に、上海交響楽団の指揮者に呼んだのが中川先生なのだから、これも当然のことである。~」

長々と河合隼雄氏のお言葉をお借りしたのには理由がある。

私が中川先生の偉大な特徴(天才性?)として注目していることに、先生の驚くべき人脈がある。世界的な音楽家なのだから日本や海外の著名な演奏家や音楽大学教授(学長を含む)とお親しいのはまだ理解出来るが、外交官・外務省関係者・医学関係者・マスコミ関係者・経済界の重鎮・・・

このように私が知りえただけを考えても、“私はいったいどういう方に師事しているのか”と恐れることすら超越してしまった無感覚さで当時は先生との雑談を楽しんでいた。

そして、先生とお親しい海外の著名な演奏家やマエストロ(マリオ・デル・モナコ、ジュリエッタ・シミオナート、マエストロ・ファバレット、マエストロ・カサグランデ・・・)に海外だけでなく日本でも、次から次へと教えを受けさせて頂き、先生方の名前も記憶できないほど多くの方々から音楽の知識と音楽的感性のご指導を受けさせて頂いた。それなら音楽以外のお知り合いは?・・・

例えば、先生のお宅に注文楽譜(一冊)を届けに来られたのは、有名な京都十字屋の会長でそのままお部屋で先生と雑談(私も同席)。先生がお電話中にくしゃみをされると、30分後位に「近くを通りましたので」とその電話の相手、阪大医学部教授が風邪薬を持って来訪。そのままお部屋で雑談、中川先生の奥様の手料理で食事(私も同席)。先生はご親友松下幸之助氏亡き後も松下電器(当時ナショナルか)の音楽顧問をされていて、私も松下電器中央研究所合唱団の指揮者の方への発声指導を先生から依頼された(杉本知瑛子ピアノ声楽研究所にて数回の指導)。

(元)慶應全国連合三田会会長:服部禮次郎氏は中川先生のご依頼で急遽「慶友三田会」の創立祝賀会(私が久しぶりにオペラのアリアとリートを歌うと先生に連絡したためか)に来賓としてご出席された。中川先生からの依頼であったと服部会長から伺ったのはそれから4年後であった。

先生のところでいろいろな難題が生じるたびに、先生のご友人方が何も頼まれなくても先生を100%信じて解決のため動かれることも度々あった。

先生は日本の大学を卒業されておられないので、日本での音楽家の派閥をはじめ人脈(大学同窓会での人脈・派閥)は無いに等しいはずである。「私は日本の音楽学校出身ではありませんから、一人の相談相手も、味方もいなかったんです。まったく一人ですから、正直言って、煙たがられることもありましたよ。」と述懐されている。(『101歳の人生をきく』より)

何も言われたことはないが、さぞ心細い思いや悔しい思いをされてきたことであったろうと思う。

私の大芸大時代はといえば専門分野の声楽研究に没頭、そして仕事(ピアノ・声楽・合唱の指導、発表会の開催)にも全力投球。つまり一般教養等は履修届けを出し、試験を受けられるだけの出席日数を確保して試験前の2日だけ参考書を読んだのみであった。受けた試験の単位は全て取得したが、勉強したという実感は全く無かった。

それでは大卒として情けなく、恥ずかしい。「天知る、地知る・・・」である。

NHKのオーディションに通っても、二期会の研究生になっても、それとこれは話が違う。

それで単なる教養もと軽く考えて入学した慶應(通信課程)であるが、教科書をみて「ギョギョッ!」となった。日本語が読めない!これでは3足のわらじに全力投球は無理と観念した。

が、中川先生はそのことをお知りになるや「慶應は卒業しなさい!やめてはいけない!慶應は普通の大学とは違う。絶対にやめてはいけない!」と何度も言われた。何故、普通の大学と違うのか、その理由は「同窓会が凄いのだ」としか教えてはくださらなかった。“哲学(当時は「美学」特に音楽に関するものなど専攻できなかったので)などは適当にした方が身のためだ”くらいにしか考えられず、“夢中で本を読んで声に悪影響がでれば本末転倒”と暇な時(殆ど無かったのだが)にしか本を開かなかった。

しかし、今なら分かる!

慶應同窓会組織三田会の存在とその凄さである。その三田会の存在感・凄さは、福澤諭吉の三大事業(慶応義塾、時事新報、交詢社)である交詢社構想を引き継ぐ組織となっていることから生じていると考えられるのであるが、その交詢社構想を知る上で社是「知識交換世務諮詢」を再度(会報第10号“杉本:「交詢社」と「シューベルティアーデ」”参照)考えてみようと思う。

そこに書かれている「知識交換」はともかく、「世務諮詢」とは何であったか?

「その繁多なること名伏に堪へず。之を世務という」(「交詢社設立之大意」)

「此間違の頂上に達したるものは、国法に訴るのほか路なきが如くなれども、或は亦、相談諮詢の方便を以って、事の緒に就くものも少なからず。~~~」(『同』)

「茫々たる宇宙、無数の人、互いにこれを知らず、互いにこれを他人視して独歩孤立するは、最も淋しき事なり」(『同』)

*「世務」とは商取引や金銭貸借、売買、雇用、など人間が社会の中で結ぶ関係の全てを指しているようである。住田孝太郎氏は「近代日本の中の交詢社」の中で、“世務諮詢とは旅行の際に一泊の宿の貸し借りをするといった社員同士の相互扶助にまで及ぶ”と述べられている。

慶応義塾とは近世日本(江戸)から近代(明治)という大きな時代の変化の中で、文明を新たに造り出すという課題と「独立自尊⇒国家独立」に象徴される近代人と近代国家への脱皮を目的とした人作りのための結社であったと考えるのが妥当であるが、当然、交詢社構想もこの大きな目的の延長線上にあったはずである。しかし、現在存在する交詢社は単なる紳士の社交クラブと化し、その精神は慶応義塾同窓会組織(三田会組織)の精神として中川先生の言われる「凄さ」となっているのである。独歩孤立でご苦労された中川先生の必死のお言葉が「三田会」の必要性であったとは・・

(続)

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