杉本8)交詢社とシューベルティアーデ(2)・・・(11号)

〔交詢社〕と〔シューベルティアーデ〕(2)

                            杉本 知瑛子(平成9年文・美卒)

前回は福澤諭吉が作った社交クラブ「交詢社」について述べたが、今回はヨーロッパにおける友人達の集い(社交クラブの一種か)、「シューベルティアーデ」について述べてみようと思う。

シューベルトを中心として、彼の友人達である詩人、画家、学者などが集まリシューベルトの歌曲やピアノ曲の演奏を楽しみながら、様々なゲームや会話に興ずるサークルが存在したが、これをシューベルティアーデ(シューベルトを囲む音楽の夕べ)という。

このシューベルティアーデでは音楽だけでなく、文学、哲学、歴史や政治問題までも話し合われたことが分かっている。

シューベルトの親しい友人達の中には作家や詩人が多く、バウエンフェルト(喜劇作家)、

クーペルヴィーザー(兄は劇作家、弟は画家)、マイアーホーファ(詩人、心気症から自殺をした)、

ショーバー(画家、作家、俳優)、シュヴィント(画家)、ゾンライトナー(法律家)、

シュパウン(兄は国家官吏、弟は歴史と文学の研究者でオーストリア民謡の収集家)、ゼン(詩人)、

ブルッフマン(哲学者)、フォーグル(法律家、歌手;ハイ・バリトン)、などシューベルトの伝記によく登場してくる人物達がいる。

シューベルトの多くの友人・知人たちはそのほとんどが芸術家であれ官吏であれ、ドイツの知識階級の人々である。シューベルトの音楽は、そういった友人達との生活や交流で大いに刺激を受け、彼らからいろいろな知識を得ていたことは疑いようがない。

当時の文学の世界に君臨していた巨人ゲーテやシラー。そしてカント哲学(1790年代には全てのドイツの大学でカント哲学が講ぜられ、カント哲学は当代ドイツの一般教養となっていた)から、シェリングのロマン主義哲学に至る過程は、シューベルトが意識しようとしまいと、それはドイツの文化として、また当時のドイツの精神として、かれの家族や友人達と同じように、シューベルトの心深くに影響を与えていたと考えられるのである。

思想とは意識しているから思想なのではなく、無意識の中でもその文化の中で生きている限り、われわれは常にその思想の影響の中で生活し考えているものである。

シューベルトの音楽もまた、ゲーテやシラー、カントやシェリングの思想と合致する点が認められる部分があることは確かである。(昔、歌曲集『冬の旅』全曲の楽曲分析を試みるまでは、これほど顕著に思想を音楽=歌曲で表現した作品が存在するとは夢にも思わなかった)

ここで又少し脱線をさせて頂きたい。

「うたものがたり」(歌曲集)『冬の旅』はドイツの詩人、ヴィルヘルム・ミューラーによって書かれた詩に、シューベルトが精魂込めて作曲した、“歌曲の最高峰”とされている作品である。

「うたものがたり」(歌曲集)『美しき水車小屋の娘』においては、気分の高揚や明るい部分がまだ含まれており、主人公が唯一の登場人物ではなく恋人やその父親、恋敵までもが現れている。そして主人公を導くやさしい小川や天使も。色彩的にもさわやかな夏を表わす緑が基調である。

『冬の旅』においては他人との関係というのは全く絶たれており、恋人との思い出もすべて過去の出来事としてしか現れてこない。またこの作品では、主人公でさえぼんやりした輪郭しか与えられていない。若者か大人か、それさえもはっきりしない。だが、そのかわり自然というものが、よりいっそうはっきりと浮かび上がっている。吹雪、氷で覆われた小川、葉のない木々、不毛の凍てついた大地、暗いドイツの冬の原野は旅する男の心の中と同じように、無彩色の世界である。そして、そのような自然の中で、恋する男の生への執着と諦め、そして死への憧れと共に反復される嘆きが綿々と続く。主人公の感情の葛藤が長く絶望的に作曲されてゆくのである。

シューベルトにとって『冬の旅』は死の景色の中の旅である。主人公の旅人は一般的にシューベルト自身の自画像であると考えられているし、どの言葉も彼の苦しみの表現、象徴となっている。

『冬の旅』の中で恋人に象徴されるものは「憧れ」である。「幻の太陽」“Die Nebensonnen”(『冬の旅』第23曲目)で歌われるように、太陽に象徴されるものは「希望」「愛」「生命」であり、又そういったものに満たされている「ユートピア」でもあると考えられる。

「太陽」はゲーテによれば「イデー」であり「根本現象」である。ミューラーはその普遍的なる太陽と共に、沈みゆく「第3の太陽」に「死への旅路」を象徴させた。

ミューラーのこの田園詩は田園詩であるがゆえにギリシア時代のプラトンのユートピアより続く、牧歌の伝統としての「楽園幻想」を含むとも考えられるのである。幸せだった昔の自然に抱かれていた喜び、そして今、自分を取り巻く現実の世界の苦しみと希望のない未来。それらの対比がより深い悲しみとなっていく「楽園幻想」。

こういった思想を内在させる田園詩は、『冬の旅』の場合、まさに、楽園(恋人)への夢と絶望の詩となっていったのである。『冬の旅』は、その田園詩における「楽園幻想の諦念」と現実のシューベルトの絶望がみごとに一致したところで作曲がなされたと考えられるのである。

(有名な「菩提樹」は、その一曲だけで典型的な楽園幻想を音楽とした曲である)

また伴奏楽器であるピアノは、しばしば魂を持つものとして考えられた自然を描写する。これは人間の内面世界の象徴として、またはその根源と本質において、人間の内面世界と親しく近いものとして理解することが出来る。こういった自然に対する考え方は、ロマン主義思想の特徴であり、自然の根底に精神と同一なる物の存在を認める、シェリングの一元論やスピノザの影響を受けた、ゲーテなどと同じ立場であると考えることができる。

『美しき水車小屋の娘』では、伴奏はロマン主義的風景の動き、つまり“せせらぎ”や“流れ”などは多様な分散和音と具象的な運動音型によって表現されていたのであるが、『冬の旅』では、ロマン主義的和声法といわれている、「大胆な転調」や「異名同音」による転換などにより、より内面世界と自然が一つになり、動きの少ない単純な曲でありながらそこに内在させる複雑さは驚くほどのものがある。

しかしそれだけであろうか?一見、連続的な物語性のない24曲を『冬の旅』と題して一つの

“うたものがたり”としなければならなかった必然性はいったいどこにあるのか?

シューベルトが友人・知人達から受けた影響の説明が中途半端となってしまった。『冬の旅』から読み取れる哲学性、そして現実の政治事件など次回もう少し述べさせて頂こうと思う。 (続)

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