杉本7)交詢社とシューベルティアーデ(1)・・・(10号)

   〔交詢社〕と〔シューベルティアーデ〕(1)

                           杉本 知瑛子(H.9、文・美卒)

〔交詢社〕とは福澤諭吉の三大事業(慶応義塾、時事新報、交詢社)の一つとして、福澤が在野で取り組み続けた事業である。

時事新報は明治から昭和(昭和11年末に解散)にかけて一流の日刊新聞として存在したのだが、

現在も存在する福澤が手がけた事業は「慶応義塾」と「交詢社」だけである。

社是「知識交換世務諮詢(ちしきこうかんせむしじゅん)」から命名された交詢社とは何を目的として設立されたのか?同窓会案から交詢社構想に変化し、福澤諭吉が三大事業の一つとして取り組み続けた「社交クラブ」交詢社とは何であるのか?

それを知るためには、交詢社以前に福澤が創立した慶応義塾とは何かをも知る必要があるようだ。

“慶應義塾とは単なる学校ではない~”故中川牧三先生(元日本イタリア協会会長)からよく聞かされていた言葉である。当時は安易に聞き流していたお言葉であるが、では慶應義塾とは?と意識は交詢社からどんどん迷路に迷い込んでいく。

安政5年(1858)福澤は江戸築地鉄砲洲の中津藩奥平家屋敷内の長屋を借り蘭学塾を始めた。

10年後(1868)の慶應4年4月(明治への改元は9月)芝新銭座に移転し時の年号にちなみ「慶応義塾」と名づけた。「芝新銭座慶応義塾の記」という宣言書を掲げての出発であった。

「芝新銭座慶應義塾の記」は以下の文章で始まる。

「今ここに会社を立て義塾を創め、同士諸子相共に講究切磋し、以って洋学に従事するや事本と(もと)私に非ず。広くこれを世に公にし、士民を問わずいやしくも志あるものをして来学せしめんを欲するなり」

*ここでの「公」と「私」の特徴について。

①同士による共同体、「会社」の公共的機能の認識。

「会社」とは企業という意味ではなく、自発的集団を指している。江戸時代に生まれた和製漢語(馬場宏二『会社という言葉』)で、company,corporation,の訳語として生まれたものである。

「学界・学芸集団・同士等特定階層の自発的集団・広く仲間や集団」として今日の「社会」の意味で使われたらしい。『西洋事情初編』には商人・学校・病院といった各種の「会社」が書かれてある。

富田正文『考証 福澤諭吉』においては「『芝新銭座慶應義塾の記』における「会社」とは英語で

association,society,とかいう意味である」と説明されている。

②洋学という学問に従事することは、単なる私事ではないということ。

③入社資格が身分ではなく「志」の有無にあること。

こうして見ていくと、慶応義塾とは近世日本(江戸)から近代(明治)という大きな時代の変化の中で、文明を新たに造り出すという課題と「独立自尊⇒国家独立」に象徴される近代人と近代国家への脱皮を目的とした人作りのための結社であったと考えるのが妥当であろう。

当然、交詢社構想もこの大きな目的の延長線上にあったはずである。

社是「知識交換世務諮詢」を見てみよう。知識交換はともかく、世務諮詢とはいったい何か?

「その繁多なること名伏に堪へず。之を世務という」(「交詢社設立之大意」)

「此間違の頂上に達したるものは、国法に訴るのほか路なきが如くなれども、或は亦、相談諮詢の方便を以って、事の緒に就くものも少なからず。本社もとより代言の事を為すに非ず。唯人事の平穏に緒に就く可きものをして緒に就かしめんと欲するのみ」(『同』)

「茫々たる宇宙、無数の人、互いにこれを知らず、互いにこれを他人視して独歩孤立するは、最も淋しき事なり」(『同』)

「世務」とは商取引や金銭貸借、売買、雇用、など人間が社会の中で結ぶ関係の全てを指しているようである。住田孝太郎氏は「近代日本の中の交詢社」の中で、“世務諮詢とは旅行の際に一泊の宿の貸し借りをするといった社員同士の相互扶助にまで及ぶ”と述べている。

では、慶應義塾(学校という結社)や交詢社(社交クラブという結社)という政府以外の自発的結社の機能と必要性を福澤はいったい何時どこで認識したのであろうか?

1862年の渡欧により先進文明諸国の実情に接し、特にイギリスにおいて政府以外の自発的結社(学校・病院など)が種々の公共機能を果たしている様子に福澤は強い印象を受けている。

それらは『西洋事情初編』の中に記載され日本にも伝えられている。この時の結社の必要性という認識が慶応義塾、そして後年の交詢社設立へと繋がっていくと考えられるのである。

銀座にある交詢社ビルディングの瀟洒な佇まいは、いかにも選ばれた紳士達が集うに相応しいものである。明治から平成へと連綿と続く歴史はあるが、交詢社という単なる?「社交クラブ」が、福澤諭吉の三大事業の一つとして慶応義塾と共に現存するのは驚きである。

ところで「知識交換世務諮詢」を同じような目的とする小さな集いが1821年1月3日、オーストリアのウイーンでも開催されていた。それは結社ではなく自然発生的に生じていた友人たちの集まりが、シューベルトのパトロンとなる様々な学者、政治家、貴族のサロンなどでも開催されるようになった、「シューベルティアーデ」(シューベルトを囲む音楽の夕べ)という集いである。

シューベルトの死は1828年だからシューベルティアーデの存続はごく短い期間である。

だが、シューベルティアーデという集いは、日本の義務教育で教えられるほど有名な「社交クラブ」なのである。貴族のサロンなどでよく催される音楽会とは違い、シューベルティアーデでは、音楽だけでなく歴史や文学、政治問題まで話し合われたことが分かっている。

一般的にシューベルトは思想や政治とは全く無関係であり、無関心(無知)であったと考えられているが、彼の親しい友人達をはじめとして、シューベルティアーデに参加している人々やシューベルトが関係した事件などを考慮すれば、たとえ彼が学校などの教育機関で思想や政治問題を学ぶことができなかったとしても、友人達を通して当時の最新の知識を得ていたことは充分に推察することができるのである。・・・・・

「社交クラブ」交詢社でこれほど迷路に落ち込むとは全く想像をしていなかった。無知とは怖いものである。シューベルティアーデに関しては今回はプロローグのみとなってしまった。 (続)

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