塩野14)渋沢栄一と福澤諭吉・・・37号

                           渋沢栄一と福澤諭吉

             塩 野 秀 作(‘76 商学部卒業)  (大阪慶應倶楽部副会長)

 慣れ親しんだ一万円札の顔が福澤諭吉から、2024年に渋沢栄一に変更されることになった。新一万円札の顔となることになった渋沢栄一については、第一国立銀行の創立者でその後、いくつかの企業を創立したことは知っていたが、詳しくは知らなかった。今年のNHK大河ドラマの「青天を衝け」の主人公にも取り上げられることになった。この際、渋沢栄一とは、どういう人物であったのか、また同時代に生きた福澤諭吉との関係にも触れたい。

渋沢栄一は、天保11(1840)年、現在の埼玉県深谷市大字血洗島の豪農に生まれた。ですから、福澤諭吉の6歳下になります。7歳の時から10歳年長の教育者従兄の尾高新五郎(のち惇忠)(後の富岡製糸場の初代工場長)に論語を学んだ。また厳しい父の指導で麦作・養蚕・藍玉の生産販売に従事し、幼くして実業にも明るく、著書「論語と算盤」の下地が育まれた。そして当時の勉強熱心の愛国者同様に強烈な尊王攘夷派であった。

時代の子として生きた渋沢栄一は、何度も幸運に恵まれた男であった。69人の同志を募り武具を買い揃え、命知らずな討幕の計画を立てた。高崎城の襲撃占拠と横浜異人居留地を焼き払うことを計画するが、尾高新五郎に諫められ断念した。血気に駆られて無茶なことをしようとしていたが、諫められて冷静になり、反逆者として処刑される危機から脱した。破滅ではなく自分を生かす道を選択した。次の幸運は、鮮やかな転身である。一橋家の重臣で開国派の平岡円四郎に出会って「世界を知らずに攘夷を主張する自分」の愚かさを知らされて渋沢は開眼します。

出会うべき人に出会ったことで、「過去のとらわれを捨てる」ことを決意し、かつて敵視していた幕府側の一橋家の家臣となりました。これまでの経緯にとらわれず、柔軟な考えで行動し、懐の深い器量の大きさを感じさせるものです。そして、徳川慶喜に仕え、1867年パリ万国博覧会に幕府の使節団として徳川昭武(慶喜の弟で当時14歳)に随行する機会を得たことは第三の幸運でした。このフランスへの渡航での経由地、香港でイギリスの強勢を知り、フランスと戦争し植民地にされたベトナムのサイゴンの荒廃した貧しい現状を知ることにより、かつての攘夷派であった渋沢栄一は、開国派へと考えが変わっていった。パリに渡る船の中ではフランス語の勉強を始め、フランスに到着後、語学教師から1ヵ月程でフランス語会話を習得したそうです。資本主義のシステムを始め多くの知識を習得できたのもフランス語を理解することができたことが大きな要因であり、渋沢にはその先見の明があった。そして西洋の文化と社会に直に触れ、日本より進んだ技術、鉄道、兵器、科学技術、銀行を中心とした経済構造を知りました。何よりも近代国家は、軍備だけではなく自由な取引の商工業によって支えられていることを知り、日本も遅れてはならないと強い思いでいました。

明治維新後は、旧幕臣であったが、大隈重信に説得され新政府で大蔵省の役人として働きます。精力的に仕事を進めますが、障害が多く、自分の生きる道は、ここではないと、明治6年に大蔵省の上役の井上馨と一緒に辞表を出し辞任しました。その後、実業界の指導者として、第一国立銀行(みずほ銀行)等の近代的銀行の育成に関わったほか、大阪紡績(東洋紡)、東京海上保険、東京瓦斯(東京ガス)、帝国ホテル、大日本麦酒(サッポロビール、アサヒビール)、日産化学、帝国劇場(東宝)、日本鉄道(JR東日本)、東洋汽船(日本郵船)、中央製紙(王子製紙、日本製紙)、中外商業新報社(日本経済新聞社)、浅野セメント(太平洋セメント)など480社の会社の設立・経営に関わるとともに社会公共事業が大切とし、日本赤十字社、東京慈恵会、聖路加病院、理化学研究所などの設立に関わり、一橋大学、同志社大学、二松学舎、早稲田大学、日本女子大学などの設立を助けました。

福澤諭吉は、明治26(1893)年6月11日付の『時事新報』で、渋沢栄一の実名を挙げた記事「一覚宿昔青雲夢」を掲載しました。渋沢栄一の生き方に感動した福澤諭吉は、渋沢が官職を辞し官尊民卑の風潮の中、世間の評判に屈することなく、一心に実業の発展に取り組んだことを、「飽くまでも其初志を貫て遂に今日の地位を占め、天下一人として日本の実業社会に渋沢栄一あるを知らざるものなきに至らしめたるこそ栄誉なれ」と讃えています。そして福澤諭吉は、若者たちに次のようにエールを送っています。「世上、幾多の渋沢氏あるべし。宿昔青雲の夢を一覚し、諸先輩の事績を鑑みて自ら省み、政治以外の功名に心身を労することあらば幸甚のみ」

この同時代を生きた二人は、それほど親しいという間柄ではないが、交流があり、共通点があります。まず、迷信などを信じない合理的な考え方を持っていたことです。この考え方が封建的差別制度を極度に憎む態度につながっていきます。17歳の時に、御用金を威張りちらして申し渡す代官に反発する渋沢栄一、下級士族の父の生き方をみて「門閥制度は親の敵でござる」といった福澤諭吉。そして、これが二人の生き方の原動力になっています。福澤諭吉も、明治政府の世になると、もう侍はたくさんだといってさっさと平民になり、仕官の要請があっても政府の役人には一切なりませんでした。
渋沢栄一と福澤諭吉との最初の出会いは、明治3年の芝新銭座の福澤邸でした。明治11年頃には、福澤が門下生で統計学などを学んでいた高木怡荘を紹介する書簡が残っています。また福澤が渋沢に宛てた他の書簡からは、明治12年に福澤が王子の別荘の新築披露会に招待され、明治26年に福澤がボストン・ヘラルド新聞社主との会席に出席を依頼されていることがわかり、それ程、親密ではなかったものの二人に親交があったことが分かります。

渋沢栄一が、実現しようとしたことが二つあります。

まず、第一に、「官尊民卑」の打破ということが挙げられます。先にも触れましたが、17歳の時に役人に理不尽に愚弄される話は有名です。この時の体験は、渋沢に、家柄や身分によって人間が差別されることの非を悟らせ、差別のない社会の実現を目指す切っ掛けとなりました。多くの企業の創立や運営に関与し、事業活動を通じて、優れた人物を育成し、民間の地位を高めることに努めました。

次に「独占」の打破があります。富というものは、社会全体を富ましてこそ真の富であるといつも考え、そのように行動しました。明治16年には、当時わが国海運事業を独占していた岩崎弥太郎率いる三菱汽船を相手に、三井の益田孝らと共同運輸会社をつくり、果敢にこれに挑戦しました。また、明治26年には、同じく海外航路を独占していた英国の汽船会社に対抗して、日本郵船の広島丸を神戸より出航させ、わが国初の海外航路をインドとの間に開きました。

渋沢栄一は、昭和6年11月11日、92歳で亡くなりました。渋沢は、心から「世界の平和」を願いました。明治39(1906)年に米国のサンフランシスコで大地震がありました。日本では、災害見舞金の拠出に前例がないため大変苦慮していましたが、渋沢が頭取をしていた第一銀行が、当時のお金で1万円(現在価値で約4千万円)の寄付を見舞金として贈ることにしました。これが呼び水となって17万円の義援金がサンフランシスコに送られました。それから17年後の大正12(1923)年9月に関東大震災が発生しました。その時に今度は米国から巨額の義援金が届けられ、外債も引き受けてもらい様々な援助がありました。特に、日米親善には尽力し四回の訪米をはじめ、日米同志会や日米関係委員会の活動を通じて、米国の政府関係者・学者・実業家などとの交流し相互理解を深める努力をしました。そしてノーベル平和賞候補にもなりました。日本の近代経済社会の基礎を築いた人物と言えるでしょう。

(塩野香料㈱社長、日本香料協会会長)

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