シューベルト:『白鳥の歌』より「小夜曲・セレナーデ」

シューベルト歌曲集『白鳥の歌』より第4番「セレナーデ」

弾き語り演奏(ソプラノ独唱&ピアノ伴奏:杉本知瑛子《録音機種:(Rakuten BIG)》

《練習演奏公開中:次回公開予定:

 

 * 日本語歌詞

(『SCHUBERT SCHWANENGESANG』畑中良輔編1962全音楽譜)より

かろやかに 我が歌流れゆき  恋人よ 我に来よ かなたより

ささやく梢に 月のかげは 優しく照り 人目を恐るな 恋人よ

うぐいすの呼ぶ声を 君聞かずや その甘き調べこそ 我がために

燃え立つ心を歌いてよ 君が心にとどく迄

わが愛する君 聞きたまえ 悩みに震えて 我待てり ああ 君

______________________________________

*原語・歌詞の意味原語はPeter版より:杉本知瑛子日本語訳)

Leise flehen meine Lieder
Durch die Nacht zu Dir;
In den stillen Hain hernieder,
Liebchen, komm’ zu mir!

僕の歌が優しく訴えかける
夜の間 君に
静かな木立へ降りてきて
愛しい人よ 僕の所へおいで!

Flüsternd schlanke Wipfel rauschen
In des Mondes Licht, In des Mondes Licht;

Des Verräthers feindlich Lauschen
fürchte, Holde, nicht, fürchte, Holde, nicht.

ささやくような木々のざわめき
月の光の中で 月の光の中で、
悪い奴に立ち聞きされても
恐れないで 愛しい人よ

Hörst die Nachtigallen schlagen?
ach! sie flehen dich,
mit der Töne süßen Klagen
flehen sie für mich.

ナイチンゲールが鳴いているね
ああ!彼らも君に訴えかける
甘い嘆きの歌で
君を想う僕のために

Sie verstehn des Busens Sehnen,
Kennen Liebesschmerz, Kennen Liebesschmerz,
rühren mit den Silbertönen
Jedes weiche Herz, Jedes weiche Herz.

ナイチンゲールは分かっている
この胸の想いを 恋の痛みを
彼らの銀色の音色は
すべての優しい心を動かす

Laß auch dir die Brust bewegen,
Liebchen, höre mich!
bebend harr ich dir entgegen!
komm, beglücke mich! komm, beglücke mich, beglücke mich!

君も心を動かして
愛しい人よ 聞いてほしい!
震えながら 僕は君を待ってるんだ!
来て僕を喜ばせておくれ!喜ばせておくれ!

___________________________

ヨーロッパの伝承で、白鳥は死ぬ時に美しい声で鳴くと言われている。「白鳥の歌」とはつまり「瀕死の白鳥の歌」であり、人が亡くなる直前に人生で最高の作品を残すことを例えで指している。紀元前5世紀から3世紀にこうした伝承が生まれたと言われていて、ヨーロッパで繰り返し使われてきた表現である。

白鳥の歌(はくちょうのうた)あるいはスワンソング(英語: swan song)は、人が亡くなる直前に人生で最高の作品を残すこと、またその作品を表す言葉でもある。

白鳥の歌』(はくちょうのうた、Schwanengesang)D957/965aは、フランツ・シューベルトの遺作をまとめた歌曲集である。3人の詩人による14の歌曲からなるが、自身が編んだ『美しき水車小屋の娘』、『冬の旅』とは異なり、『白鳥の歌』は本人の死後に出版社や友人たちがまとめたものであり、歌曲集としての連続性は持っていない。新シューベルト全集では『レルシュタープとハイネの詩による13の歌曲』 D957と『鳩の使い』 D965aとに分けられており、そもそも『白鳥の歌』という歌曲集は存在しない扱いになっている。

(なお、シューベルトの『白鳥の歌』としては他人の手が入った歌曲集のほか、自身の手による同名の歌曲が2曲ある。)

歌曲集(Liederzyklus)『白鳥の歌(Schwanengesang)』D957

シューベルトの最後の歌曲集『白鳥の歌』は、もちろんシューベルト自身が編集したものではなく、出版者トビアス・ハスリンガーが、イソップの童話で「白鳥は死ぬ前にもっとも美しい声で歌を歌う」と伝えられている伝説に基づいて、シューベルトの遺作となった14曲の歌をこのタイトルで出版したものである。

歌詞の作者はH・ハイネ(1797~1856 第8曲~第13曲)、L・レルシュタープ(1799~1860 第1曲~第7曲)、J・G・ザイドル(1804~1875 第14曲)という三人の詩人で、もともとシューベルトは、このうちのハイネとレルシュタープの詩による13曲を、歌曲集として発表しようと考えて作曲したが、このうちでハイネの詩による6曲だけを、明らかにお金に困ったために、独立して出版者に提供しようとした。(1828年10月2日。ライプチヒの出版者・プロープストに宛てた手紙を参照)。

レルシュタープの詩による歌のうちで、一曲だけが未完だったため(「生きる勇気」[Lebensmut]D937)、シューベルトの死後ハスリンガーは、その代りにザイドルの詩による「鳩の使い(Taubenpost)」を加えて、全14曲の歌曲集『白鳥の歌』として出版したのである。(1829年4月)。

歌曲集『冬の旅』を完成した後、シューベルトの到達したもう一つの最高峰ともいうべきこのシリーズは、ゲーテと並んで、たとえシューベルトの音楽がなかったとしても、世界中の人にその名を知られる偉大な詩人として残る、ドイツの詩人H・ハイネとの邂逅という点でひときわ大きな特徴をなしている。

レルシュタープ(Ludwig Rellstab)

ルートヴィヒ・レルシュタープの詩による7曲の歌曲は、もともとはシューベルトに作曲が依頼されたものではなく、実はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに依頼したものがベートーヴェンの死により、何らかの経緯でシューベルトにまわってきたものであった。

レルシュタープとベートーヴェンの間柄と言えば、一般にレルシュタープがベートーヴェンの没後に、ピアノソナタ第14番を『月光』と「命名した」ことが挙げられるが、実際にはそれ以前に「ルドラムスの巣窟」というウィーンの名だたる著名人の夕食会に、ともにその名を連ねている。ただし、実際に接触があったかどうかは定かではない。その後、時期ははっきりしないものの、レルシュタープは『白鳥の歌』に使われた7曲分を含む詩集をベートーヴェンに送り、歌曲の作曲を依頼した。ベートーヴェンが送られた詩に実際に目を通したかどうかは不明であるが、間もなく1827年3月26日にその生涯を終えたため、レルシュタープの詩による歌曲は作曲されず、レルシュタープの送った詩集はそのまま埋もれてしまったと考えられていた。

ところが、『白鳥の歌』が世に出た際、レルシュタープは自分がベートーヴェンに送ったはずの詩にシューベルトが作曲していることに驚く。さらに、ベートーヴェンの秘書アントン・シンドラーからレルシュタープが詩に添えた添え書きを渡され、詩がベートーヴェンからシューベルトのもとに渡った経緯の説明を受けた。

シンドラーの説明では、ベートーヴェンは詩を受け取ったものの健康状態が芳しくなかったため、シューベルトに作曲を委ねたというが、その真偽は全く不明である。ともかく、詩はシューベルトのもとにわたって、シューベルトはレルシュタープの詩による少なくとも8曲からなる歌曲集の成立を目指して作曲に取りかかった。しかし、実際に完成したのは『白鳥の歌』所収の7曲にとどまり、歌曲集のトップに据える予定であった『生きる勇気』D937 は未完成に終わった。『生きる勇気』が完成しなかったことは、『白鳥の歌』の構成に少なからぬ影響を与えることとなる。

全14曲のうち、前半7曲はレルシュタープ(Rellstab)の詩によるものである。しかしこの歌曲集の「凄さ」は、続く6曲のハイネ(Heine)の詩によるものと考えられる。しかしこれはもう「歌」というよりは、「つぶやき」であり「うめき」でもある。

残念ながら私はまだ精神的には若いようで、ハイネの曲に手を出せるほど老成はしていない。そこでまずは、シューベルトの歌曲として誰もが知るこの曲を選んでみた。

__________________________________________

《参考:杉本知瑛子著 シューベルト~その深淵なる歌曲の世界1ー①

シューベルト(Franz Schubert:1797~1828)は、その短い生涯で1.000曲以上も作曲している。
歌曲だけでも約600曲にものぼるのである。しかもその作品は、多いだけでなく珠玉の名曲が多く残され、特に歌曲の分野では他の追随を許さない名曲の数々により、今日でも世界は「歌曲の王」と称せられる名誉を彼に与えている。

このように短い期間に大量の作曲をしたために、彼には多くの伝説がある。
例えば、作曲のための詩を選ぶのはほとんどが偶然によるものであるとか、作曲したものには執着せずすぐに忘れてしまう、とかのように彼の楽天的態度が一部の彼の知人達の証言として伝わっている伝説である。ひどいものになると、連歌集“詩(うた)物語”『冬の旅』(『Winterreise』D.911)が、かくも壮絶なる作品となったのは、長年の彼の病気である梅毒が脳へ入ったためで、『冬の旅』を作曲した時期である死の前年は、もう精神異常に近い状態で病気の波の比較的良好な時に作曲されたものだ、といわれていたようなものまであった。

しかし、そうした一部の人達の証言がすべてで、またそれが真実なのであろうか?
問題は、彼の音楽に対する態度であり、彼が音楽に対して取り組んだ姿勢である。
またそれは、その音楽の内容にも重要な意味をなしてくることなのである。
このような彼の音楽に対する態度や、作品に取り組む姿勢、に対する我々の先入観は、彼の作品を演奏したり鑑賞したりする際に、彼の理性的な意思や音楽以外の知識による影響を、無視せざるを得なくしてしまうのではないだろうか。私はこのような伝説を調べることにより、シューベルトの音楽の偉大さを少しでも知る手がかりを得られないかと考えた。

だがその定説となっていた伝説のようなものが、まさしく作曲家の天才や狂気ゆえのものだけであるなら、それは私にとって曲(内在する精神性)を知る何の手がかりにもならなくなってしまう。
彼の環境の特異性はシューベルティアーデであり、あまりにも有名な梅毒という病気である。・・・・・・・・・・・・・

作品の音に対する重要さと同じくらいに、文学的内容の重要さも認めねばならない、と私は考えている。・・・・・・・・・・・・・・

シューベルトの歌曲集には、1823年の作品「連歌集“詩物語”としての『美しき水車小屋の娘』(D.795)」『Die schöne Müllerin』と死の前年1827年の作品『冬の旅』がある。

*死の年・1828年にシューベルトの死後遺品の中から発見された数々のリートが二分冊に編集され、『白鳥の歌』(D.957)『Schwanengesang』のタイトルをつけて出版された歌曲集もある。

ギリシア時代の昔から「詩人は神の声を書いている」といわれ、神の声を聞く者は預言者であり、あるいは又狂人であるという考え方が信仰されていた。

音楽家もまた預言者(天才)であり狂人であると考えられ易いが(昔、詩は音楽の一種であった)、シューベルトもそのように考えられていた、といっても過言ではないであろう。
シューベルトの短期間(約15年間の作曲期間)における1.000曲にも及ぶ作品量、そしてベートーヴェンなどに比べて作品の下書きが残存していない、ということなどから、彼の天才性からくる無造作な作曲態度という誤解が生まれ、さらに『冬の旅』などの死と諦念をテーマにした、一連の陰鬱な歌曲などから彼の精神異常が考えられ、その原因として長年彼を苦しめてきた病気、梅毒が考えられてきたのである。・・・・・・・・・・・・・

全文はこちら:シューベルト~その深遠なる歌曲の世界~1-①

杉本知瑛子(H.9、文・美(音楽)卒)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトは reCAPTCHA で保護されており、Google の プライバシーポリシー利用規約が適用されます。