ソフィアさんちのチルちゃんと僕(60)~天才と凡人(4-5)~
「僕、もう言葉を失った・・・」
「中川先生のご出版された本には、もっともっと有名人が出てくるわよ。その誰もが日本の歴史を作り上げていった方々だけれど、ご本には音楽関係の方々のお名前しか書いてないから残念だとソフィアさんが言っていたわ。
だって、慶應全国連合三田会会長だった、セイコーホールディングスの会長でもあった服部禮次郎氏とは古い、いえお若い頃からのご親友だったし、経営の神様と言われていた松下電器㈱創業者の松下幸之助氏ともご親友だったので、幸之助氏が先生に話されていた経営の極意のようなこともソフィアさんは先生からよく伺っていたらしいわよ。それに往年の有力紙である毎日新聞や毎日放送の会長とも親しかったみたい。その時の部下、といっても毎日放送の局長かなんか偉い方で大阪慶應倶楽部の幹事長をされていた方とも親しくされていたそうよ。
その方に、「先生は誰?」と聴かれて「中川先生です。」と答えると「凄い先生についているだね」と言われ、私の演奏が気に入ったので先生にお電話までしてくださった、とソフィアさんまたまた感激していたわ。それに二期会(関西)の専属伴奏者に伴奏を頼んだときも、「先生は誰?」と聴かれ、「中川先生です」と答えると「凄い先生についているのね。中川先生っていくらお金を積んでも師事できない先生なのに・・・何方の紹介?レッスン代はいくら?」さすが音楽界のことには長けておられる、的確な質問に、ソフィアさん始めて中川先生のご好意を知ったらしいわ。だってソフィアさんのレッスン代はいくらでもいい、と言われ奥様(後の)に尋ねて彼女と同額にしたそうよ。でも彼女がレッスンを受けているのは見たことがなかったみたいなので、どうもとんでもない安い額を教えられたのかもしれない、と後で思ったそうよ。」
「それに外務省にも顔が利くみたいで、外交官がすぐに動いてくださったお話は・・・長くなるから又今度ね。」
《5、④その他
*ベルリン時代の交流
斉藤秀雄(チェロ)、喜志康一(バイオリン)、木下保(1903~1982)(東京芸大;短期留学生)、 奥田良三(1903~1993)
*ミラノ時代の交流
三浦環(1884~1946)、藤原義江(1898~1976)、原信子(1893~1979)、関屋敏子(1904~1941)、
渡辺光(声楽家:大山巌元帥の孫)、吉田茂(当時の在イタリア日本大使)、
*バイオリニスト鰐淵賢舟(1910~1986)氏(女優鰐淵晴子さんの父上)との交流。
1934年(昭和9年)、ベルリンからミラノ、アメリカを回って日本に帰られた頃、鰐淵賢舟氏
もウィーンから帰って来たところで住む所が無いということもあり、青い目の美しい奥さん
と共に京都の中川先生の邸宅で一年ほど暮らすことになる。
鰐淵賢舟氏の帰朝演奏会は(京都朝日会館の杮落とし)中川先生のプロデュースで開催された。
*世界的なオペラ歌手との交流・・・モナコ、テバルディ、シミオナート、等とはご親友。
ラヴェル、ジョルダーノ、トスカニーニ、等とはご親交があった。
明治、大正から昭和の激動の時代、日本の音楽の歴史はどのような変革を遂げていったであろうか。
昭和11年(1936年)2・26事件以後日本は戦争への道を突き進んだ。
日本国内では軍歌しか演奏できない西洋音楽の暗黒時代にも、先生は吹奏楽団を組織し円山公園の音楽堂で土曜日ごとにコンサートを開催された。(官憲に刃向かうのではなく国策に沿う形で「軍艦マーチ」の時代に「ラヴェルのボレロ」や「アイーダ」や「ウイリアム・テル」などを演奏された)。そして国民の意思を統一して士気を高めるために吹奏楽連盟や合唱連盟も作られた。
しかし、活躍の場を失っていた若き日本の芸術家たちは、先生(軍部)からの招聘により上海という地に移り自由な西洋音楽の牙城を守りぬいていたのである。 》 (続)