シューベルト~その深遠なる歌曲の世界~4-③ (38号)

 「Schubert~その深遠なる歌曲の世界~」4-3

                     杉本知瑛子(97、文・美(音楽)卒)

~前回『冬の旅』(4-2)からの続きです。~

(4)過去と現在の対比

第5曲「菩提樹」(Der Lindenbaum)

過去(E dur:ホ長調)、現在(e moll:ホ短調)、未来(E dur:ホ長調)、・・・現在を語る詩節(曲の中間部)以外、歌のメロディーは同じである。

過去と未来は同じE durであるが、過去は和音の静かな動きで、未来は分散和音のこまやかな動きである。そのように調子を変え、伴奏型を変化させて過去・現在・未来、を対比させている。

第8曲「回顧」(Rueckblick)

現在(g moll:ト短調)、過去(G dur:ト長調)、・・・現在を歌う詩節は暗く、不安な音とリズムで不幸な現在を表現している。しかし過去の思い出を歌う詩節は、爽やかなG durを用いて、幸せな明るい響きを使っている。リズムも穏かな音型である。

現在と過去を、moll(短調)とdur(長調)、暗と明として、また不安をかきたてるリズム音型と穏かなリズム音型などによって、明確な対比を見ることができる。

第11曲「春の夢」(Fruehlingstraum)

過去(夢:A dur:イ長調)、現在(現実:D dur:ニ長調)、・・・ここでも過去と現在の対比は明確であり、過去は夢であり現在は空しい現実である。

夢は春の景色であり、愛する美しい乙女である。現在は冬であり、孤独である。・・・

シューベルトは、過去(夢)を夢見るような6拍子のdurで表現した。ここでは現在をmollでなくdurを使っている。

しかしこのdurは明るいdurではなく、透明感のある悲しみのdurになっている。その根拠は、伴奏の左手のメゾスタッカートの無気力な響きと、右手のよろけるような休符を伴う、オクターヴの音型である。2/4拍子の歩みのリズムに変化したdurの中で、現実の虚しさにショックを受けた心が、無気力に、よろめくように、その現実を歌っていく。

伴奏の音型に感傷的なmollではなく、無気力で透明感を持つdurを使っていることにより、夢と現実の対比は大きく、その衝撃の大きさを表現していると考えられる。

(5)心(諦念)を象徴

諦念とは、低次元的には主情的で過去への執着と、執着からの開放を望む嘆きの観念であり、高次元的には現実を直視しながらも、客観的で合法則性的必然性を達観する観念である。

これは、当時の諦念についての考え方である。(参考:ゲーテの自伝『詩と真実』)

*『詩と真実』(ゲーテの自伝)

諦念について「部分的諦念」と「全体的諦念」について述べている。

少し説明を加えれば、「部分的諦念」とは思うようにならない人生に対し、無常なものの観察によって人生の虚しさに嘆声を発するような諦念。部分的諦念には否定の精神が働いて、積極的行いへの志向がみられない。

「全体的諦念」とは、無常なものの観察によって永遠なるもの、必然なるもの、法則的なるものの確認、いいかえれば、合法則性的必然性を観ずることである。

さらに言いかえれば、個々の無常に恋々として執着せず、また「いっさいはむなしい!」と面をそむけることも無く、それを直視して、そこに永遠的な合法則性的必然性を達観することである。

少し横道にそれてしまったようだが、ゲーテのこの「諦念」観を、ここで借用して考えてみれば、シューベルトはこの諦念についても、個々の曲では部分的諦念であるにもかかわらず、全曲を通してみると、全体的諦念にと至っていると考えられるのである。

個々の曲は、原調では主観的・感情的な雰囲気の強い音楽になる。

(移調によるバリトン演奏では、曲の雰囲気が変り観念的な雰囲気が強くなる。)

しかし、全曲を通すことにより、合法則性的必然性を観ずることは可能である。

ゲーテの言葉を借りていえば、ここにも「主観的な部分的諦念」と「客観的な全体的諦念」の対比を見ることができる。

シューベルトは、最後の『辻音楽師』(Der Leiermann)には(a moll:イ短調)と(h moll:ロ短調)の2曲を作っている。現在『冬の旅』で原典版として出版されている楽譜は、a mollの曲で、低音域の5度の響き(繰り返される左手のドローンの響き)は702セント、純正の響きである。

それゆえに、個々への執着による不安のない、一種の安らぎの音をそこに認め、客観的な全体的諦念をそこに見ることが可能なのである。

もしこれがh mollの曲であるなら、低音の5度は696セントになり、その響きには現実の苦悩に嘆声を発する心を象徴するかのような、不安さの内在を認めざるをえないであろう。

その場合、『冬の旅』は、個々への執着による嘆きの曲、つまり、部分的諦念の音楽としかならなかったかもしれない。

シューベルトは歌曲集最後の曲としてa mollの曲を選んだのである。

このa mollの曲を最後に置くことにより、それ以外の23曲と異質には感じても、この曲『辻音楽師』は、連歌集『冬の旅』全体の余韻ではなく、『冬の旅』全体のテーマの結論ともみなせる曲となっている、と考えられるのではないだろうか。

もちろん、それは急に全体的諦念になったわけではなく、『辻音楽師』以前の曲で主人公の主情的であった諦念は変化しているのである。

◎第20曲『道しるべ』(Der Wegweiser)、この曲において、主人公は過去への執着から脱出しようと努めている。

前半の2つの詩節は、過去の苦しみから逃避してきた現在の状況を歌っている。

しかし、最初の詩節は(g moll:ト短調)で、悲痛の中で歌詩がつぶやかれるが、第2詩節では(G dur:

ト長調)になり、明るい透明な和音の響きの中で歌詩がつぶやかれる。

同じ現在の状況を歌っているにもかかわらず、苦痛の状態の中でシューベルトが使った明るい響きは、主人公の精神の変化を我々に語りかけずにはいられない。それは、過去への執着という諦念からの脱出への努力を、その明るい響きで我々に感じさせている。

第3詩節で、主人公はそれまでのさすらいの旅を、

“Ohne Ruh’,und suche Ruh’.”    (憩いなく、憩いを求めて。)

といっている。

つまり、諦めてはいても諦めきれない過去への執着を引きずって、さすらいの旅を続けてきたのである。

そして、第4詩節ではこういっている。

“Eine Strasse muss ich gehen, Die noch Keiner ging zuruek.”

(その道を私は行かねばならない、誰一人帰ってきた者のない、その道を)

ここには過去への執着の念はもう見られない。

ここにおいて、主人公は過去への執着と決別するのである。

その決意を示すかのように、歌のメロディーは動かない。

伴奏はその決意の悲壮さを表わすかのように、その詩節の第1小節目は減7の不安な響きを、弱々しい歩みのリズムとともに使っている。

この減7の不安な弱々しい響きこそ、主人公の低次元の諦念からの脱出という決意に対する想いを表わしている。

◎第23曲『幻の太陽』(Die Nebensonnen)では、もう過去への執着から開放されている。

(部分的諦念からの解放)。

 太陽は、ゲーテによればイデーであり根本現象である。『ファウスト』において、ファウストが

アルプスの頂近くの美しい草原で眠りから覚め、昇ってくる太陽を待っている時、その輝く光に耐えかねて「太陽はおれの背後にとどまっていてくれ!」と言っている。

ゲーテだけでなく、当時の思想として太陽は最も普遍的なものとしてとらえられていたのである。

ミューラーはその太陽に、「希望・愛・生命」を、そして沈みゆく「第3の太陽」に「死」を象徴させた。

シューベルトはこの曲の伴奏をコラール(賛美歌)風な和音にし、A dur(イ長調)を基調に選んでいる。この調では、白鍵の4度(e.a:ミ・ラ)と5度(e,h:ミ・シ)でさえ純正(4度は498セント、5度は702セント)である。

死に面した人間の想念として、シューベルトはこのように研ぎ澄まされた美しさを持つ調と、コラールという穏かな音型を使用した。この伴奏の型と響きそのものも、一つの象徴としてシューベルトの死への想念を示していると考えられる。               (続く)

(元声楽研究家:杉本知瑛子ピアノ声楽研究所)

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