山根11)福翁百話が説く宇宙と人間について(2)・・・(13号)

                  福翁百話が説く宇宙と人間について(その2)

                                                                     山根 昭郎 (1975 法卒)

もうしばらく、諭吉が宇宙についてどのような思考を巡らしていたのか、考察してみたいと思う。

◆諭吉の宇宙・自然観

前号にも書いたように、諭吉は、宇宙が人知では測り知ることが出来ない、広大な存在であり、寸分の狂いもなく動いている緻密さも同様に筆舌に尽くしがたいものであると断じている。そして、宇宙というものは、大いなるからくりであって、神秘的な尊さを備えた不思議な存在であるとも表現している。さらに諭吉は、人はこの世界に在って、心身の運動を自由自在に楽しむとともに、仮に無知や愚かさに妨げられることがなければ、宇宙・自然にあるものすべては人間が活用できる材料となり、自分のために役立てることができると論を進めている。そして、進歩改良が進んでいけば、将来、理想的な時代が来るかも知れない、少なくともそういう期待は空しいものではないと言い、今の時代であっても人が享受している幸福は非常に大きなものであると人生を肯定している。

このように諭吉が喝破した真理は、どれほど時がたとうと変わらぬものである。宇宙の神秘は考えれば考えるほど不思議なものである。なるほど、科学技術は人類の歴史において近年、驚くほどの進歩を遂げている。人間は自然界や宇宙にある「材料」を発見し、それを利用、応用して生活を発展させてきた。しかし、その「材料」もまた、宇宙のからくりのなかで原始から宇宙に備わっていたものなのである。科学の進歩によって、宇宙の根源や地球の始まりについて少しずつ解明がなされていると言われることもあるが、果たして完全につきとめることは可能なのだろうか。

◆「宇宙に感謝の思いを起こすべきかどうか」-根源的な問いかけ

諭吉は、今の時代における人間としての幸福を肯(がえん)ずる一方で、それでは人は、「この宇宙の恩に感謝すべきかどうか」、通俗的に言えば「ありがたいと言うべきものなのか」と、まさに宇宙と人の存在についての根本となる問題を提起する。

諭吉は言う。そもそも、恩や感謝とは、思いやりや恵みに対しての観念であって、なんらかのことに感謝するであれば、それらの思いやりや恵みを与えてくれた相手が存在していなければならない。しかし、宇宙という大いなるからくりは不思議にできあがったものであって、このからくりを造った存在は見ることが出来ない。創造主という名前を仮につけてこの宇宙のからくりが創造主によって造られたとすれば、一見、物事がまとまるようにも思えるが、それでは、その創造主を造った存在がまた居なければならない、さらにはそのまた創造主の創造主がいなければならない。それは際限もない話であり、この宇宙のことは不思議に出来上がった大いなるからくりと言ってしまう以外どうしようもないものなのである、そして、宇宙が果てしもなく広大で、寸分の狂いもなく動いている緻密さを持ち、測り知れない不思議なものであることを知れば知るほど、人というものの存在がちっぽけで無力なものだと自覚するだけのことである。ただし、一方で、人間が空気や水を吸収し、太陽の光に照らされて、生きていくことができるのは天の定めたことであり、その定めが人間にとって道理や意味があるということで、それはつまりは天の恩なのだから、天に感謝すべきだと言う人もいる。

確かに傾聴に値するようにも思えるが、と断りながらも、諭吉は次のように言う。

「天道は唯不可思議に自から然るのみにして之をして然らしむる所にものあるを証す可らず而(しこう)して謝恩の念は相対の思想より生ずる所の情なれば此れと彼れとを比較して両者に対し其の恩誼の有無軽重を識別して始めて之に謝するの一念も発起す可し」

(天の道理はただ不思議で自然とそのようになっているだけのことで、この宇宙のからくりをそうさせている存在が居ることを証明できない。それに加えて、恩に感謝するという思いは、相対的に比較してどちらに恩があるかないか、どちらが重いか軽いかを区別認識して、初めて感謝する気持ちが起こるものである。)

つまり、天のからくりはただひとつだけのもので、それによってもたらされる恵みが及ぶ範囲はいまだかつて一方だけに手厚く、一方だけに手薄いということを観ることがないので、特に感謝するという理由などないのである。ただ一つの存在で、公平で不変の天の道理は、感謝しようとしても本来感謝できない、怨もうとしても怨むことができないものである。

このような諭吉の思考と認識の仕方は、まさに、プラグマティックなもので、彼の真骨頂があると思う。前号にも述べたように、虚仮おどしの哲学者や宗教家、あるいは半可通は、宇宙・自然の神秘に対し、あたかも悟りを開いたような言葉を述べがちだが、諭吉はあくまで知らないことは知らないと突っぱね、放っておく。そして、次のように、ずばりと人生の真理に切り込む。

 

「吾々(われわれ)は人間の子にして文明進歩的の動物なるを知るが故に既往を想起して先人の特に辛苦経営したる大恩を謝し後世子孫の為めには勉めて智徳発達の緒(ちょ)を遺(のこ)さんと欲するのみ」

(我々は人間に生まれて、文明を進歩させようとする生き物であることを自覚しているのだから、過去を思い出しては、先人が私たちのために格別に苦労して努力して文明を築いてきたという大いなる恩に感謝をし、未来を想っては、後世の子孫のために努力して智恵や道徳をさらに発達させる糸口を残していきたいと願って生きていくだけのことである。)

(了)

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