杉本11) 天才と凡人(2)・・・(14号)

   「天才と凡人~学問研究に対する姿勢~(2)」

                          杉本 知瑛子(H.9 文・美(音楽)卒)

天才ということを、一般人(凡人)にとって非常に困難なことを容易に出来る能力を天性として持っている人を天才というのなら、福澤先生も中川先生も正しく天才といえる。

今回は日本では一般に余り知られていない中川牧三先生について、先生の存在で日本の音楽の歴史がどのような変化・発展を遂げたかを検証してみようと思う。

中川先生は「これも勉強した、あれも勉強した」とは決して仰らなかった。

最初レッスンに伺った京都のお宅はレッスン室以外にもお部屋がたくさんあり、レッスン室だけでは先生のご勉学の形跡を伺うことはできなかった。

数年後にレッスン場所として移られた芦屋のお宅は後に先生の奥様となられる方のご実家でもあり、実際に先生が常に目にしておられた書物を見ることができたのは、その後近くの芦屋のマンションに移られてからである。マンションなのでレッスン室の隣の部屋が書斎となっていて書棚がある。喜んで初めてその部屋を覗いた時には正直驚いた。楽譜も含めて音楽の本は極わずかで、イタリアの気候風土や歴史の本など以外は最近出版されたオペラ歌手の自伝など日本語の本ばかり・・・(後で教えて頂いたのだが、引越しの度に古い書物は処分されそれでも必要な書物はマンションの地下室を借り書庫としてご使用されていたとのこと;その地下の書庫は水害にあい貴重な資料と共に全書物も消滅の憂き目に・・・)

それで先生の深い知識経験はレッスン後の“雑談”からでしか窺い知ることができないと思い知らされたのである。

先生は101歳の時に(故)河合隼雄(元京都大学名誉教授:日本でユング派心理療法を確立した臨床心理学者:元文化庁長官)氏との対談による自伝『101歳の人生をきく』(講談社)を出版されている。それによると、

“1902年:京都に生まれる。1910年よりバイオリンを学び、1920年から声楽と指揮を本格的に始める。

ベルリン国立高等音楽学校、ミラノ国立音楽院、国立スカラ座歌手養成所、南カリフォルニア大学で学ぶ。

イタリア・アメリカでテノール歌手として活躍。1934年に帰国。

第二次世界大戦中は、支那派遣軍総司令部参謀部付幕僚及び上海陸軍報道部スポークスマンとし                  て上海での日独伊外交を遂行。戦後、日本にイタリアオペラを実現する一方、「イタリア声楽コンソルソ」を創設。~”

本の最後に書かれていた小さな「著者略歴」である。これらさえ謎であった先生の経歴などは本にしてくださったお陰で、昔伺ったことと先生の履歴とが重なり改めて謎が解明されていく。

本文の中にはもちろん?というところもあるが自伝とはそういうものであろう。

私の音楽に必要な知識は先生との雑談によるものが大きい。しかし数十年も前に覚えていたつもりのことでもその都度のお話が歴史的に前後関係が怪しくなって覚えていることも多々ある。そういった不安を少なくともこの著書は解決してくれた。(先生と京響との関係は、終戦直後3年間月に3回位毎日新聞社の京都支局の3階ホールで開催された「バロック演奏会」で京響の人達に演奏協力を依頼されたことであり、岩淵龍太郎、外山雄三、林達次、他、多くの演奏家から無料で出演・協力を得たことである。会の主催者及び指揮者は中川牧三。入場料200円位:聴衆は常に京大の学生ばかりであったそうである)

洋行前:中学から京都の同志社へ(賛美歌=歌=を歌いたくて同志社を選ぶ)、しかし兄上が二商(現在の北野中学のところ)の卒業生のため一年で二商に転校させられる。二商の校長大沢渚によるアメリカの教育方法により英会話(イギリス人宣教師ミス・ソーターの授業)を習得、ミス・ソーター(ロンドン王室音楽学校のバイオリン科卒業)より師宅にてバイオリンの個人指導を受ける。

また同時に師宅でお茶のマナーとかフォークソングなども教えられる。(大正時代半ばの話である)

(この頃、中川先生は京都で同好の士を集め二商の雨天体操場で仲間とバイオリンの練習を始める)

大学は同志社に入り、賛美歌会で神学館にいたアメリカ人のシャイベリ先生といつも一緒に歌う。

又「京都公会堂」での「同志社イブ」でバイオリンのソロ演奏を行いその後オーケストラをつくる。

(京大にはすでに京大オーケストラがあったので同志社でもと真似をされたそうである)

オーケストラに必要な楽器は全て京都の十字屋に頼み揃えるが、お金だけでなく準備等の負担も大きく勉強の時間が無くなり「こんなことではいかん。一年志願兵に行け」と父上より命じられる。

福知山の20連隊に志願兵で行く。軍服でダンスホール(当時の社交場)に出入りするが、そこで谷崎潤一郎(1886~1965)、白洲正子(1910~1998)等とも知り合う。

除隊後は同志社に戻らず会社勤めをするが音楽への思いが断ち切れず,近衛秀麿氏(1898~1973)に「ヨーロッパに連れて行ってくれ」と頼むことになる。

バイオリン:昭和5年(1930年)近衛秀麿氏と共にシベリア鉄道でヨーロッパへ渡る。先ず、ベルリンでは一番偉い先生カール・フレッシュ(1873~1944)に師事するがアドルフ・ブッシュ(1891~1952)の演奏を聴いて驚きバイオリンの勉強を断念する。同じ時期にカール・フレッシュに師事していた喜志康一(1909~1937)も日本との演奏技術の格差にひどいショックを受けバイオリン(音楽そのもの)をやめてしまったそうである。

(声楽のワイゼンボーンやバイオリンのカール・フレッシュは厳しい方だったようで、ベルリンでは「悲嘆のどん底」だったと述べられている:同行された近衛秀麿氏は元首相近衛文麿氏の実弟で貴族院議員、当時は指揮者としてすでに成功を収めていた:近衛氏は山田耕筰(1886~1965)氏と一緒に新交響楽団を創設して指揮者に就任済:船だと40日かかるがシベリア鉄道だと韓国の釜山からベルリンまで13日で行ける。それで近衛氏がベルリンでフルトベングラーの指揮を見たいとの事で鉄道に決まったが、片道のシベリア鉄道に乗るだけで近衛氏との二人分で21万円かかったとのこと(1階に3間2階に2間あるきちんとした借家の家賃が5円の時代である)それで着いた翌日フルトベングラーの演奏を聴くことができ、十数日前に近衛氏が東京で振ったばかりの曲との違いに驚愕される。是非その秘密を知りたいと思いお二人はフルトベングラーに会いに行かれる。彼が楽譜に全部自分でハーモニーを書き足していたことを知られるや、彼の楽譜を全部借りお二人で全て写し取られたのである。後日エーリッヒ・クライバー(1890~1956)やクレンペラー(1885~1973)等からも彼等の譜面を快く貸して頂けたとのことである)

そんな時ベルリンにイタリアのテノールが来て歌うのを聞かれその声に驚愕、是非ベルカント(bel canto)の秘密を知りたいと思われベルリン滞在1年数ヶ月でイタリアのミラノへ移動される。

オペラ:ミラノへ着いたその晩、近衛氏と二人でスカラ座でヴェルディの『リゴレット』を観劇。

近衛氏はドイツのオペラとは全く違うイタリアオペラに感動され、「日本にはまだこういう立派なオペラはない。何としてでも、これを日本に持って帰れ。君ならやれるから、そのまま持って帰れ」

と言われる。中川先生でなくとも誰でも無理と思うことである。独唱、重唱、合唱、オーケストラ、

芝居、バレエまで全てである。「そんなことはとってもできない。一人でやるなんて無理です」と答える中川先生に近衛氏は「一人だからできるんだ。一人でやれ」と命じられたのである。(続)

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