シューベルト~その深遠なる歌曲の世界~   4-②・・・(37号)

「Schubert~その深遠なる歌曲の世界~」4-2

                     杉本知瑛子(97、文・美(音楽)卒)

~ 前回『冬の旅』(4-1)の続きです。~

(3)心(感情)の象徴

第2曲「風見の旗」(Die Wetlerfahne)では、シューベルトはいろいろな音型で風見を表現している。

屋根の上の風見に風が戯れている様子が、6/8拍子の波打つようなリズムの中で示されている。

geschwindの速さで疾風のように、またアルペジオと8分休符を効果的に使って、風が風見に戯れている様子を表現している。

“風は風見のみか、その下に住む住人の心をも弄ぶ。」(Der Wind spielt ~)

主人公にとって、風見に戯れる風は(不誠実な女の心を風見で示す)哀れな男を嘲っている風である。

この町を逃げ出してゆく男にとって、風の吹きすさぶ様は己の心の中の嵐のような、哀しみと怒りの象徴であると考えられる。

 

*第3曲「凍った涙」(Gefrorne Traenen)

2/2拍子の4分音符の歩みのリズムと2分音符の組み合わせは、よろめきながら歩いている状態を示している。特に規則正しいpp(ピアニッシモ)でスタッカッティシモ(スタッカートより短く切る)の4分音符と2分音符のアクセントで、よろめきながら歩み続けている様が理解できる。

そのよろめきは、Gefrorne Traenenという言葉で分かるように、自分が泣いていたことも知らずに、放心状態で泣きながら冬の寒さの中をさ迷っている様子そのものであり、そしてこのよろめきは、まさしく心の痛み、悲しみによって、主人公が無意識によろめきながら歩く、心の悲しみの様をも表現しているのである。

第7曲「川の上で」(Auf dem Flusse)

最初のe moll(ホ短調)では、8分音符の歩みの音型が続く。しかし、歌詩に恋のことがふれられるところになると、頻繁な転調が現れ(E dur→A dur→fis moll→H dur)不安さをかきたてる。

伴奏音型も8分音符だけでなく、16分音符(メゾスタッカート)が現れる。

“初めてあった日、そして別れ去った日(Den Tag des ersten Grusses,~)”という思いが語られるところでは、その16分音符は3連音符2つ(16分音符4つから6つの速さになる)となり、速さと激しさを増す型がとられているのである。

頻繁な転調の不安さと次第に速くなる心の動悸のように、不安は増してゆくのである。

歌の旋律はつぶやくように単調に流れてゆくだけだが、その表面的な単調さに比べ、(伴奏は)主人公の不安や悲しみ、過去への想いや哀れな自分の心を伴奏によって如実に表し、歌の旋律でさえも、あたかも日本の能のごとく、“静”中の“動”と成し得ているのである。

“静”とは、もちろん音楽の表面的なものだが、“動”は内面的なもの、つまり、激しい主人公の感情である。

第18曲「嵐の朝」(Der stuermische Morgen)

16分音符の激しさは嵐の風を表わし、fz(フォルツァンド:強いアクセント)の4分音符は雷光のようである。

“Mein Herz siet an dem Himmel gemalt sein eignes Bild,”

(私の心は天に描かれた自分の姿をみる)

荒れ狂う嵐が、天を引き裂いている。その情景の中に、主人公は自分の引き裂かれた心(自分の姿として表現してある)を見るのである。

シューベルトは、荒れ狂う嵐にちぎれた雲が吹き飛ぶ様と、主人公が天に描かれた自分の姿を見る歌の旋律と伴奏型を同じものにしている。

すさまじい嵐と自分の姿(心)を同じと見ている主人公にとって、メロディーでさえも嵐と心は同じになるのである。ここでは、嵐が心を象徴しているというより、嵐という自然と心という内面世界が一体となって、凄まじい主人公の内的世界を表現していると考えられる。

主人公は、その自分の姿を次のように表現している。

“Es ist nichts als der winter, Der Winter kalt und Wild!”

(それこそは、冷たくて荒々しい冬以外の何ものでもない!)

ドイツの厳しい冬の自然、それこそが自己の心なのだ、とこの第18曲ではっきりと言っているのである。“冬の旅”とは“自己の心の旅”であると、この詩の中ではっきりと言っているのである。

第22曲「勇気!」(Mut!)

この曲の標題は「勇気」である。これは苦しみに立ち向かっていく様を表現した詩である。

シューベルトは、前半をg moll(ト短調)を基調として使っている。前奏のメロディーと歌の1小節目のメロディーは同じである。

しかし、前奏部分は力強くf(フォルテ)で勇気を表わし、歌の部分では力なくp(ピアノ)で歌われる。だが、p(ピアノ)のまま、すぐ思い直したように長調に転調させている。

勇気を持とうと気負いこんでも、精神がそれについていかない。

自分を奮い立たそうと、明るくしようと必死の努力を試みている主人公の心の動きが、これら短調と長調の入れ替わりと、伴奏と歌部分の強弱の対比で、はっきりと理解することが出来るのである。

後半の確定的転調(G moll)から、調子はG dur→D dur→G dur→B dur→G durと変化し、曲はmf(メゾフォルテ)となっている。

ここに至って、勇気は主人公の力となり、

“Will Kein Gott auf Erden sein , Sind wir selber Goetter!”

(この世に神が存在しないのなら、我々こそ神になろう!)

と、苦悩の中で神を否定し、そして現実の否定と超越を試みるのである。

しかし、最後の4小節の後奏は最初のg moll(ト短調)に戻り、前奏部と同じメロディーがf(フォルテ)で繰り返される。そこで我々は、このf(フォルテ)とmoll(短調)により、彼の勇気は、空しく、悲しい勇気であり、苦悩の超越は、いまだ不可能であることを理解するのである。

歌詩は、意味、内容をもっている。しかしそこに音楽が付けられることにより、その歌詩に、より細かい、内容豊な性格を決定付けることが可能である。

シューベルトは詩に曲を付けることにより、この勇気の性格を単なる勇気でなく、苦悩の中の弱々しい自分と必死に戦っている主人公の精神の姿として表現している。

シューベルトは音楽を使って、歌詩の性格つまりは主人公の精神をより明確に表現することに成功したと考えられるのである。

第24曲「辻音楽師」(Der Leiermann)

この曲の特徴は、始めから終わりまで続く左手の完全5度の和音である。

a(ラ)とe(ミ)の完全5度は702セントで純正の和音である。

この単純な和音によって貫かれているこの曲は、この和音で(この和音の性格で)、主人公の辻音楽師への気持ちが理解できると考えられる。

この5度は、純正でやわらかな落ち着いた響きを持っている。それ以外の、人間的な不安さを持つ響きの音は全くない。

シューベルトは、辻音楽師を見ている主人公に、落ち着いた安らぎを与えたのであるとしか考えられない。

a(ラ)とe(ミ)の完全5度はライヤーのドローン(注1)の響きであるが、それは主人公の心に鳴っている響き(主人公の心に聞こえる響き)であり、主人公の心の投影の響きである、と考えられるからである。

(注1)ここで辻音楽師が弾いているのは手回しオルガン(ドレーオルゲル)ではなく、ドレーライアーまたはラートライアーである。

形はヴァイオリンに似ているが演奏法は全く異なり、その側面についている左手用の鍵盤によって弦を押さえ、右手で尻の部分についているハンドルを回すことによって、樹脂を縁に塗った木製の円盤を回転させて、弦をこすり旋律を奏でる楽器。通常、この旋律弦の他に1~2本の固定弦が張ってあり、これが低音でドローンを響かせる。

(『ドイツリートの歴史と美学』ヴァルター・ヴィオーラ著、石井不二雄訳、音楽の友社、S57)

P.159参照

(続く)

(元声楽研究家:杉本知瑛子ピアノ声楽研究所)

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