ソフィアさんちのチルちゃんと僕(91)~世阿弥と福澤諭吉(4-3)~
「わあ~!きれいなモミジだよ。」
「モミジは散る前に真っ赤に色付いてそれから地面に落ちるのよね。
地面に落ちたモミジの葉は、赤や黄色の葉で地表を埋め尽くすでしょう?春に咲いているきれいな花も、どんなに素晴らしくてもいつまでも咲いていないわよね。
萎れて枯れても、モミジのようにきれいなままの枯葉で地上が埋め尽くされれば、お花で満開の春にも劣らない美しさだわ。・・・?ちょっと違うかな。」
《3、世阿弥は続けて述べる。「すべての演戯を通じての花というものを身につけていなくても、ある一面に置ける花をきわめた演者であれば、しおれた美しさを知ることもあるであろう。このしおれた美しさというのは、花よりもさらに一段階上の境地と考えられる。もともと花が咲いていなくては、しおれるということは無意味である。」
「美しい花がしおれた趣が面白いので、花も咲いていない草木がしおれたところで、なにが面白かろう。花をきわめることさえ一大事であるのに、しおれた風趣というのはその上とも考えられる感覚的な美であるから、なおなお大変なことなのだ。だから、譬(たと)えによって説明することもむずかしい。
『新古今集』秋の上にある藤原清輔の歌に
薄霧の籬(まがき)の花の朝じめり
秋は夕と誰か言いけん
(朝の薄霧のなかに、垣根の花がしっとりと咲いている、
秋の情緒は夕方にかぎると誰がいったのだろうか)
『古今集』恋の五にある小野小町の歌に、
色見えで移ろふものは世の中の
人の心の花にぞありける
(それとはっきり様子に見えないで、いつの間にか色あせ、
やがて散ってゆくものは世間の人々の心の花であるよ)
そして世阿弥は語りかける。「これらの歌から感じられる風趣が、しおれた美しさといわれる趣であろうか。それぞれの心の中で、考えて見るべきだ」と・・・
最後に、能における「花」とはどのようなもので、どのようにして把握すべきかが書かれている。》
写真上:宮川直遠氏撮影 「今年の紅葉」(「緑の環境委員会」より)
写真下:宮川直遠氏撮影 「ギンイチモンジセセリ」(「ハイム蝶百科図鑑」より)