ソフィアさんちのチルちゃんと僕(90)~世阿弥と福澤諭吉(4-2)~
「お花のことを言っているんだけれど、僕の知らない花ばかりだ。」
「お能を鑑賞する際のすばらしさを花にたとえて話しているのよ。だから、萎れた花の美しさも花の美だと言っているの。」
「ふう~ん、萎れた花でもきれいなのかなあ。」
「相当難しそうだけれど、お話をよ~く聞きいてみましょう。」
《2、世阿弥は「たとえ身につけた技術の幅はせまくとも、ある一方面において花を咲かせるということを身につけた演者であれば、その一方面についての良い評判はそれなりにつづく」と言い、それを「時の花」(若さによる芸の花・一時的な珍しさ)と名づけている。
これに対し「芸における花のありかたをきわめた上手ならば、たとえ年をとって技術は衰えても花の魅力はいつまでも残るであろう。花さえ残っていれば、その人の舞台の魅力は一生涯あるはずだ」と言い、それを「真の花」(芸についての工夫、技術と研究を極めつくした演者に存在する花)と表現した。
では、「しおれた花の美しさ」とは?
問 つね日ごろ、批評用語として、花がしおれたような美しさ、ということがいわれる。
これはどんなことをいうのであろうか。
答 これは、とても文字で書くことはできない。もし書いたとしても、しおれた花の美しさといった感覚的な風趣は現されないないであろう。しかし、たしかにしおれた風趣というものは存在する。
だがそれも、芸の花というものを身につけたうえで、にじみでる趣なのだ。よくよく考えてみると、こうした美しさは、芸術的な感覚によるものであるから、技術的な稽古や、形としての身振りで表現することはできない。その人が芸の花を身につけたうえで、自得することであろう。
(『風姿花伝』「第三 問答」より)》
写真上:宮川直遠氏撮影 「シャクナゲ」(「緑の環境委員会」より)
写真下:宮川直遠氏撮影 「ギンイチモンジセセリ」(「ハイム蝶百科図鑑」より)