ソフィアさんちのチルちゃんと僕(89)~世阿弥と福澤諭吉(4-1)~
「クーちゃん元気そうね。蝶やお花のおともだちといっぱい遊んできたみたい。」
「春は桜から始まって、蝶おじさんの蝶だけでなくお花もいっぱい、おじさんのお友達の蝶や鳥が凄くきれいな写真も、いっぱいいっぱい見てきたよ。」
「よかったわね。もう満足した?」
「うん、後はバラと菖蒲と紫陽花だ。まだこれからだから早くお話を聞かせてよ。梅雨の大雨になる前に蝶々さんたちと花園で遊ぶんだ!」
《 「世阿弥と福澤諭吉」(4)
杉本知瑛子(97、文・美(音楽)卒)
1、前回は「能」における「物狂い」と、西洋のオペラにおける「狂乱の場」で演じられる「狂気」について述べてみたが、今回は能楽理論で最も重要と考えられている「花」について、「時の花」と「まことの花」そして「しおれた花の美しさ」について、それらの花を比べてみようと思う。
*時の花とまことの花
問 ここに、どうしてもわからないことがある。それは、すでに年功を十分に積んだ名人に対して、最近売り出したばかりの若い役者が、競演で評判をさらうことがある。これは、どうしたことなのだろう。
答 これこそ、「年来稽古」に述べた三十歳以前の若々しい肉体や、新鮮な演戯から生まれた時分の花の魅力である。年をとった演者がもはや外面的な美しさもなくなって、演戯も古くさく、観客に飽きられてきた時期に、若い役者の持っている、一時的な珍しさの魅力が勝つことがあるのであって、ほんとうに目のきく観客は見分けるであろう。そうなれば鑑賞眼が高いか低いかといった、いわば観客側の問題と考えるべきであろうか。~
しかしながら、五十以後にいたるまで芸の花を、失わないほどの演者には、どんな若さによる芸の花をもった演者でも勝つことはないであろう。
ただこの若い演者におくれをとるというのは、そうとうに上手な演者が、芸の花を失ってしまったために負けるのである。
~どんな名木といわれるような木であっても、花の咲いていないときの木を鑑賞する人がいるであろうか、見すぼらしい桜の、つまらない花であっても、他の花に先がけて、珍しげに咲いている方が眼にうつるに違いない。こうしたたとえを考えてみれば、それが若い演者の一時的な芸の花であっても、競演に勝つのは当然であろう。
以上のようなわけで能において、もっともたいせつなことは、舞台における花であるのに花がなくなってしまったことも覚らずに、昔の名声ばかりに頼っていることは、老齢の演者の大きな誤りである。たとえ、技術的には、数多くの曲を身につけたとしても、舞台における花をいかにして咲かせるかということを知らない演者を見るのは、花の咲いていないときの草木を集めて見ているようなもので面白くない。あらゆる草木において、花の美しさは、それぞれに異なっているけれども、面白いと感じる根本は、ひとえに花の魅力という点にあるのだ。 (『風姿花伝』「第三 問答」より)
世阿弥著『風姿花伝』の「第三 問答」は、実際の上演についての一問一答を記したものである。
上記は「時の花とまことの花」について、問と答えの一部分である。》
*写真:宮川直遠氏撮影:「カルミア」(「緑の環境委員会」より)