ソフィアさんちのチルちゃんと僕(83)世阿弥と福澤諭吉(3-1)
「きれいな人だ~」
「静御前が白拍子姿で舞を舞っているところよ。諭吉倶楽部の天川貴之さんの写真集に掲載されていた写真なのよ。」
「えっ?まさか本人?」
「そのまさかよ。」
「白拍子というのは男装の美女が舞を舞うのだけれど、天川さんは男装の美女に扮して白拍子の舞を舞ったのよ。」
「まるで天女のようだ、きれいすぎるよ~」
《「世阿弥と福澤諭吉」(3)
杉本知瑛子(H9、文・美(音楽)卒)
1、前回は『風姿花伝』第一「年来稽古」(各年齢に応じた稽古のありかた)について述べたが、今回は、第二「物学」(役に扮する演戯の方法)から記述していきたい。
第二 物学(ものまね:役に扮する演戯)
~役に扮する演戯というものは、どんな役の場合でも、その対象を細部にわたってよく似せることが本来の目的である。しかし、一方においては対象によって程度の差が考えられるべきで、~
~品位の高い役柄とか詩的な対象については、いかにも綿密に似せるべきである。
田夫野人といった下賤の役に扮するときはよく似せることが物まね本来の目的であるとはいっても、その卑しい動作そのものを細部にわたって似せるべきではない。たとえば樵・草刈・炭焼きといった低い身分の役でも、自然の美と結びついた詩情を感じさせる一面をこそ、こまかに似せるべきであろうか。~
演じる対象によって似せるといってもそれぞれに違いがあるべきだ。
〔女〕:曲舞(くせまい:観阿弥がとりいれて現在の能のクセという部分に名残りを留めている中世の芸能のひとつ)を舞う女性、白拍子(平安末期から鎌倉にかけて流行した、男装の美女が舞った芸能、静御前・祇王などが代表人物)、または物に狂った女性(物狂いも一種の歌舞芸能者)の役については、扇とか、花の枝といった持ち物を、いかにもしとやかに、手に力が入り過ぎないように持って演ずるのがよい。~顔の角度が上を向きすぎると、面の容貌が見苦しく見えるし、またうつむくと、後ろ姿が悪い。そして首に力を入れすぎると、いかつい感じがして女らしくなくなる。~》