ソフィアさんちのチルちゃんと僕(81)~世阿弥と福澤諭吉(2-4)~

「お面で顔を隠しても謡う声は身体から出るんだから、若い人と高齢者では違って当然だよね。」

「そう、それに鍛錬を積んだ声と上手の物まねでは一声聞いたらすぐに分かるわ。」

「現代では小さなひそひそ声でも、録音機器の性能がいいから強くても弱くてもはっきり聞こえるんだ。昔は舞台では下手な人の声は舞台近くでも聞き取りにくかったはずだよ。」

「クーちゃんよく知っているわね。すごい!」

「当たり前だ!最近のテレビの音の悪さにはたまらないよ。ニャンコやワンコの声は普通に聞こえるのに、若いきれいな女の人のおしゃべりはムードを出して囁くような喋り方だろ?それを大きな音にしているのでモワモワと何を言っているのか分からない!音は大きいのにモワモワ・・イライラしていたらしっかりと画面の下に字幕がでていたよ。かっこ悪いと思わないのか!

僕、字が読めないから余計イライラしてしまうんだ。」

「ストップ!クーちゃん、現代では全て電気仕掛け、音量は全部機械がしてくれるのよ。だから昔のように、名前?だけの演者でも大恥をかくことはないの。それがいいことかどうだか。」

《4、        十七・八歳より

この年ごろは、あまりに重大な時期なので、多くの稽古を望んでも無理である。

まず、変声期に入るので、十二・三歳のころにあった第一の花は失せてしまう。~この頃の稽古は、もし他人に嘲笑されるようなことがあっても、そんなことは気に掛けず、声の出しうる範囲の音程で、朝といわず夜といわず、たゆまず稽古し~強い信念を持って、能から離れないようにしている意外、稽古の方法はない。

二十四・五歳

この年ごろは、一生涯の基礎を固める最初の時期である。~変声期を過ぎて、本格的な発声をしうるようになり、体格も定まり、すっかり大人になる時期である。~若く美しい声と姿態がはっきりと身についてくる。若々しい感覚の能が生まれる時期である。~若い演者の新鮮な美しさが、名人と言われた人との競演にも、その名人を凌ぐほどの評判を得ることがあったりすると、世間の人は実力以上に評価し、また演者自身も、自分はかなりの上手だと思い始めたりするものだ。~ここで賞賛された芸は「まことの花」(優れた技術、豊かな見識を兼ね備えた人の芸によって咲かせる花)ではない。若々しい演者の声や姿態から発散する表面的な美しさであり、それを観客が珍しいと感ずる一時的な魅力にすぎない。~このころに咲かせる花こそ、初心の美しさと考えるべきなのに、本人は思いあがって能を極めつくしたように考え、早くも能の正しいありかたからはずれた勝手な理屈をこねまわし、名人気取りで異端な技をするのは、あさましいことだ。~つまり、「一時的な花」を「まことの花」と思い込む自惚れこそ、真実の花からなおさら遠ざかる原因となる。~演技者としての自分の芸力に対して客観性を持ちえたならば、ある時期に身につけた花は、生涯失せはしない。自分を見つめる力が無く、思いあがった考えで、自分の力量以上に上手な演者だと思ってしまうと、もともと持っていた芸力の魅力さえも失うことになる。~

三十四・五歳

~この年ごろの能は、一生の内の、もっとも華やかな絶頂である。~もし、この年ごろになって、あまり世間にも認められず、名声もそれほどでないとすれば、どんなに技術的に上手であっても、まだ、「まことの花」を極めていないと自覚すべきである。三十四・五歳までに、「まことの花」を身につけ得なかったことが、四十歳以後の芸の上にはっきり現れてくる。芸の下降は四十歳以後に始まるからである。~》

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