ソフィアさんちのチルちゃんと僕(76)~世阿弥と福澤諭吉(1-4)~
「ねえ、ねえ、チルちゃん。どうしてソフィアさんお能のお話を知っているの?」
「昔、本当に大昔よ。ソフィアさん謡曲をならっていたことがあるのよ。」
「ウウッ、謡曲ってお能のうたとおしゃべりの部分だよね。」
「そう、声を出せれば何でも楽しい、って幸せな性格よね。」
「それでうたえるようになったの?」
「まさか!でも一度能舞台で謡曲の会が催されて、ソフィアさんシテ(主役)をうたわさせられたことがあったわね。」
「ええっ、それで・・・どうだったの?」
「謡は声も大きいし何とか成功だったのだけれど・・・着物姿で舞台は床よ。そこで長時間正座をして謡うのだから・・・能舞台は幕もないし・・・ヒサン・・・ささ、お話の続きを読みましょうね。」
「・・・・・?うん」
《4 西洋でも東洋でも中世の芸能者がいかに蔑まれ、社会的に低い地位につけられたかは広く知られている。日本でも古くから遊芸人は「七道の者」と一括され、正業を持たぬ乞食・非人と同様の扱いを受けていた。
~世阿弥が将軍義満の寵愛を受けるようになっても、当時の公家達の目には「此くの如き散楽(さるがく)の者は乞食の所行なり」(三条公忠著『後愚昧記』)と映っていた。~
そのような時代(室町時代初期)に世阿弥の父観阿弥は、農民層を相手に細々と興行していた猿楽を一躍表舞台の芸能に引き上げ、又いろいろな試みを通じて、その芸術性を飛躍的に高めたのである。
〔観阿弥による改革〕
*曲舞(くせまい)の節を取り入れて、大和音曲というものを生み出した。
(曲舞の節を取り入れることで、大和猿楽は幽玄さを備えるようになる)
*曲舞の節を採用するにとどまらず、能楽の中に「クセ」という部分を入れ、そこで新しい音曲による立舞を演ずるようにした。
これが、大和猿楽にいっそうの幽玄さを付け加えた。
*自分で新しい曲をいくつも作った。
(自然居士、卒都婆小町、百萬、吉野静、等)
〔世阿弥の「夢幻能」とは違い、回想の中でフラッシュ・バックすることはない。〕
当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。》