ソフィアさんちのチルちゃんと僕(74)~世阿弥と福澤諭吉(1-2)~

「きれいだね、あれ?お面を付けているよ。」

「お面を付けることでいろいろな役になりきることができるのよ。これは『吉野天人』のお能みたいだわ。」

「何を言っているのか分からないけれど、このお能だったらきれいだから見ていられるよ。」

《2、 福澤先生は中津藩下級武士の子として生まれ、世阿弥は大和猿楽(申楽)一座の座長・観阿弥の子として生まれた。

先生が「門閥制度は親の仇で御座る」と後年に著した『福翁自伝』で述べておられるように、「封建制度に束縛されて何も出来ず、空しく不平を呑んで世を去った父の苦しさ」を思った先生が選ばれたのは、学問の道であった。とはいっても学問らしきことを始められたのは14~5歳からである。

世阿弥は観阿弥の子として1363年に誕生した(幼名:鬼夜叉、藤若=二条良基より贈られた名、通称:三郎、実名:元清、法名:世阿弥陀仏)。その時父観阿弥吉次は31歳(数え歳)、この頃大和猿楽の有力な役者であった観阿弥は結城座(大和猿楽の一座=現在の観世流能)を創立する。

観阿弥が今熊野で催した猿楽能に12歳(数え歳)の世阿弥が出演した時、将軍足利義満の目にとまり、以後観阿弥・世阿弥親子は義満の庇護・寵愛を受けるようになる。

(1378年祇園会で、将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびたようなこともあった)

1384年観阿弥(52歳:数え年)が没して、世阿弥は観世太夫を継ぐ。世阿弥22歳(数え歳)の時である。

ちなみに、足利尊氏が京都室町に幕府を置き政権を握ったのは1336年であり、世阿弥の父観阿弥の生きた時代は動乱の時代から足利将軍家による天下統一のころである。(1392年、南北朝合一)》

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