ソフィアさんちのチルちゃんと僕(73)~世阿弥と福澤諭吉(1-1)
「今度は日本語ばっかりだ!だけど何か変だよ。」
「そうね、古い日本語は英語やドイツ語より見慣れていないから、訳が分からない人が多いのよ。福澤諭吉先生のご本だって日本語なのに、原書(日本語)を読むだけで“研究”と言っている人がたくさんいるわよ」
「日本語なのに?」
「本を読むときは先ずその文字が読めないと内容など分かるはずないでしょ。その文字が現代の教育では“国語”ではなく“古文”のようだと、読むだけでも大変、意味などなおさら、だからそういった古い時代の書物は読みやすいように、現代語に訳した書物がたくさんあるのよ。」
「うわぁ~、それじゃそれを訳した人が間違えた意味を書いていたらとんでもないことになりそうだ。」
「そうよ、だからめちゃくちゃな意味でも偉い人が書いたものなら何でも正しいとなってくる可能性があるから、現代語訳は自分でしなければ信用できないわよね。それができるためには当然だけれど、原文の解釈もある程度的を射たものでないと・・・」
「・・・自分の翻訳も解釈も危なそうなのに・・・」
「自分勝手な思い込みやそれに基づく翻訳は、原典とは別のものになっていると思ってかからないと・・・だね。」
「だから原書そのものも確かな出版社かどうかの確認は重要よ。音楽でもイタリアオペラや歌曲はリコルディ、ドイツリートはペーター、ピアノ曲なら・・・と楽譜だけでも信頼できる出版社は古くから決まっているの。
教える先生が日本版で教えた場合、生徒の努力や能力の前に、著名な演奏家の公開レッスンなんかでは、“あなたのレッスンはできません。使用楽譜が違います。レッスンでは原典版でなければなにも教えることが出来ません。あなたは先生から原典版を使うよう指示されなかったのですか?でも努力をしてステージでの演奏準備をされたのですから、どうぞ一度は演奏して帰ってください。”と聴衆の面前での言葉があり、演奏者だけでなく聴衆もみなその事態に凍り付いてしまったことがあったそうよ。」
「こわぁ~、レッスンでよかったね。」
「とんでもない!大きな会場で催される公開レッスンはステージでの演奏と同じなのよ。ううん、それ以上かもしれないわ。聴衆は皆高額の入場料を支払って聴きに来ているし、たいていは専門家なのよ。この時レッスン拒否された方は、某有名音大の講師で充分な演奏キャリアを持っているピアニストだったので・・・余計会場が凍り付いてしまったらしいわ。」
「ソフィアさんは大丈夫?」
「最初某芸大では一般の先生方は日本語版使用だったみたいだけれど、学外で師事していた先生は原典版使用だったので、学外の先生方からは原典版で指導を受けていたわ。学内コンサートに出演した時は、原典版だったけれど当時その曲の日本版は出版されていなかったの。で、自分で翻訳して???ばっかりだったみたいよ。たとえあっても意訳として全く別の歌詞が付けられていたようなので無視・・・これって犯罪に近いって・・・日本語版で歌う場合は全く別の曲として歌っていたみたいよ。
学内で師事した五十嵐喜芳先生と大橋国一先生は当然原典版使用なので、以後日本版は参考資料としてしか使わなかったみたいね。」
《「世阿弥と福澤諭吉」(1-1)
杉本 知瑛子(H.9、文(美・音楽)卒)
1、世阿弥(1363~1443)とは、日本の古典芸能に興味の無い人でも名前くらいは聞いたことがあるであろう、現代の日本人には難解な哲学のような古典芸能を父・観阿弥(1333~1384)と共に親子二代で大成させ、その芸術論を著し現代にまで伝えた能役者であり、美学者とも言える人物である。
能とは、「謡=謡曲」と「仕舞=能などでの演舞」に「囃子=笛、太鼓、鼓、など」が加わり、
演じる物語に相応しい役の能面をつけ、シテ(主役)、ワキ、ワキツレ、(地謡≒合唱)等が能舞台で演じるものであるが演者はすべて男性である。
(もちろん現代では女性能楽師も存在する。:1948、女性の能楽協会加盟が認められる。2004、日本能楽協会への女性の加盟が認められる。)
*「能」と「能楽」の区別は紛らわしいが、日本の重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されているのは「能楽」である。「能楽」とは、式三番(翁)を含む能と狂言を包含する総称である。
このような室町時代に生きた世阿弥と福澤先生を比較して、一体何を発見することができるであろうか?簡単に考えれば、両人とも戦乱の世(古い時代)から新しい時代に移行した時期に生まれた文明(文化)の開拓者であり、その目指す目的のために著書を多く残し、その著作・思想が現代にまで続いているということである。》