ソフィアさんちのチルちゃんと僕(71)~天才と凡人(6-6)

「数日前にお家の整理をしていて、“人間とは何か”“現代のディレンマ”という三浦先生の講義プリントを見つけたと言って、ソフィアさん大喜びをしていたわ。」

「そんなに大切なものなの?」

「当時、慶應一の頭脳と言われていた三浦先生の考え方や理論の組み立て方が分かるような授業だったらしいわ。講義をされている先生の身体から炎が噴き出しているのを感じたそうよ。

あの授業を受けなかったら、大きな思考の木の存在に気付くことなく、根っこや枝葉や花などに心を奪われ、それで完璧と満足していたに違いないって、ソフィアさん感動して言っていたわ。」

「じゃあ、その授業を受けた学生は皆大喜びだったんだろうなあ。」

「とんでもない!出席者の80%以上は机の上で熟睡、あとの15%はうつらうつらとノートもとらず夢の中、目をあけてノートに何か書いているのは5%くらいだったらしいわ。それものんびりと。

先生、授業の最初に“この講義内容からは試験出題をしません。出席も取りません。試験を受けた学生には全員単位をあげます。”と仰ったものだから邪魔者がいなくなったの。だから先生は出席した学生のために、自分の授業を聴こうとしている学生のために、それがたとえ2人でも3人でも、その学生達のために身体から炎を発するような講義をされたそうよ。それも連日だから。」

「ふう~ん」

「その講義内容は、その何ヶ月か前に大学内でされて、その時聞いていた学生はボ~ッと聞いていただけだったらしいけれど、慶應の先生方(助手・講師・助教授・・・)がたくさん出席され、目を血眼にしてノートを取りながらその講義を聴いておられたそうよ。ソフィアさん、まるで先生方のための講義みたいだったとの評判を聞いて納得していたわ。」

「腕相撲の先生、すごいんだね。」

《6、すぐに洗脳されてしまう単純頭脳の持ち主である私はそのまま納得して、“天才というのは自分の持つ基礎知識をどのように組み立てて使うか、だけで決まることなのだ。それで、無知か又は知識のみで応用力の乏しいような人が天才という言葉をつくるのだ”と思うことにした。

しかしその後(10年くらい後だったろうか)、「人間とは何か」という先生の講義で基礎知識の応用(組み立て方)というのが、いかに凡人にとって困難なことなのかを知ることになるのであるが。

~「天才と凡人(5)」より~

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*以上、タイトルを「天才と凡人~学問研究に対する姿勢~」として、思い浮かぶまま(1)~(5)

まで書いてきたが、今そこからこのように私が重要と思える事項を抜き出してみると、天才の要素を持つ人々が偉人となるためには、“「天才」とは「天性の才能である」「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」”という言葉から思い浮かべた、天才といえる方々の〔学問研究に対する姿勢〕を調べることだけでは、到底真の意味での天才についての回答が得られないことに気付いたのである。

福澤先生と中川先生がなされようとされたこと、それは日本という国が近代国家として新たな文明を作り出すという大きな構想(それが国家と音楽という違いはあっても)を持たれたことである。》

しゃしん:「白石常介文芸集」より「天高く」

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