ソフィアさんちのチルちゃんと僕(39)~天才と凡人~(1)-1
「さあ、クーちゃん今度はたくさんの枚数があるわよ。大丈夫かな?」
「むずかしいの?」
「大丈夫よ。むずかしい専門用語は出てこないみたいだし、物語を聞くようなつもりで聞けばいいわ。だって、このお話の主人公中川牧三さんは、ソフィアさんの先生だった方なのよ。ソフィアさんが、知りたがったことなら何でも丁寧に教えてくださった、ともう亡くなられた今でもソフィアさんにとっては、一番信頼できる先生みたい。」
「それでメモもたくさんの枚数になっているんだ。でも、お弟子にいちいちそんなにたくさん話をしてくれるなんて、お年寄りなのに疲れなかったのかなあ」
「ソフィアさんが師事していた時は、京都の大きな家を出られて、後に奥様となられた方の芦屋のご実家におられたので、その頃定期的に通っていたのは、古い子飼いのお弟子さんが一人とソフィアさんだけだったのよ。奥様となられた方は、ソフィアさんと同じ五十嵐喜芳という声楽家のお弟子さんで、ソフィアさんの一年後輩なの。で、レッスン終了後はいつも3人でお茶を頂きながらおしゃべりをしていたみたいよ。」
「だからいろんなエピソードはソフィアさんの体験からもたくさん書いてあるんだね。楽しみだなあ。」
《 「天才と凡人~学問研究に対する姿勢~(1)-1
杉本 知瑛子(H.9 文・美卒)》
《1 「天才とは天性の才能である。」(広辞苑より)
結果だけを見て、凡人には想像も出来ないことを成し遂げる人間を私達は単純に天才と呼んでしまう。
「シューベルトは梅毒の病魔が脳を侵し、その正常と異常の狭間で『冬の旅』が作曲された。天才と狂気が作り上げた作品をどのようにして解明できるのか?解明?それは無駄なことである。・・・」と長い間(現代の医学でシューベルトの梅毒は完治していたと証明されるまで)考えられていたことでも分かるように、天才と凡人は全く別世界の人間のように考えられてしまいがちである。
しかし本当にそうであろうか?今回は偉人の中にみられる天与の才能について考えてみたい。
まずは、福澤諭吉先生と中川牧三先生の学問研究に対する姿勢について。
でははじめに、偉人福澤諭吉は天才か?否か?
現代から見て諭吉が偉人中の偉人であるということには疑いようは無い。
しかし『福翁自伝』を読んでみて感じることは途轍もない秀才ではあっても、果たして天才という部分は・・・という疑問である。》
「あれ!タマちゃんたちもお話を聞きたいって勢ぞろいしているよ。」