ソフィアさんちのチルちゃんと僕(106)~交詢社とシューベルティアーデ③-3~

「わあ寒そう、僕、冬はおうちの中の方が大好きだ。お外に出るのは10秒位でいいよ。」

「暖かいおうちの窓からお外を見るのはいいけど、ひとりで一日中お散歩なんかしてたら凍え死んじゃうよ。」

「花も咲いていないし、蝶々さんも飛んでいないし・・・クーちゃんしょげる前に、慌ててお家の扉に突撃ね。」

「“冬の旅”ってそんなお外を死ぬまで歩き続ける人のお話なんだろ?僕には理解できない!」

「そうね、クーちゃんには“冬の旅”より“美しき水車小屋の娘”の方が分かりやすいかもしれないわね。」

「何かロマンチックな題名だね、僕美しいお嬢さんのお話は大好きだ。どんなお話なんだろう。」

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《3、 それではこういった事件から可能な推察や無意識下での影響ではなく、それらが音楽そのものに与える影響を思想に求める時それは非常に難しいと言わざるをえないのだが、幸いなことに彼は“歌曲の王”と賞されその短い生涯に約600曲もの歌曲(珠玉の名曲も多い)を作曲している。では歌曲と他のピアノ曲や器楽曲と何が違うかといえば、演奏楽器がピアノと人間の身体であるという以外に、音楽が文学作品に内在されている思想(例えば情念)から完全に自由になることができないということである。

ならば歌曲ほど分かりやすく思想(文学作品・音楽作品)を表現できる音楽はないともいえるのではないか。前回『水車小屋の娘』と『冬の旅』について簡単な考察をしたが、その時“うたものがたり”(歌曲集)『水車小屋の娘』と『冬の旅』について、『水車小屋の娘』の一連の物語(恋物語)に対して『冬の旅』には連続的な物語性がないのは何故か、という問を残した。『冬の旅』第1曲目が始まる前に主人公の恋物語は終わっているのである。『冬の旅』はそこからの出発である。登場人物は主人公と自然(時には主人公の内面世界を象徴する)だけである。連綿と続く嘆きの歌、それをシューベルトが全精力を費やして“うたものがたり”としなければならなかった必然性とはいったい・・・?》

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