ソフィアさんちのチルちゃんと僕(88)~世阿弥と福澤諭吉(3-6)~
《6、能楽では、「老人」や「直面で演じる物狂い」の役は、「能を知りつくした演者でなければ、十分に演じることは不可能である」と世阿弥は言っている。また「相手のことを一途に思うといったような、物思いによる物狂いの曲」は、「そういった戯曲の主題を、役作りの基本に置くべきである」とも言っている。このような突き詰められた感情が、物狂いとして錯乱や狂気を生じさせ、オペラではそれ自体狂気をも感じさせるような技巧の限りを尽くした、コロラトゥーラの出番となるのである。
『風姿花伝』には「物狂い」について具体的な言及はあまりなかった。
「よくよく稽古を積むべきである」
そこには時代を問わず洋の東西を問わず、私の一番苦手な言葉が出てきている。
ごく短いこの言葉には千金の重みがある。しかしそれだけでは表現できない“狂気”を、今回私は「ギリシア哲学」の中に見つけることができたのである。
“人は、誰かを愛している時、エロスという神霊、ダイモンの神懸り状態にあるといってもよいでしょう。
非常に霊的に覚醒した状態になるのであります。
これは、神懸りであるが故に、「神的狂気」と呼ばれるものであります。狂気そのものは、正気より劣っているといえますけれども、神的狂気は、正気よりも素晴らしいということがいえます。
このエロスの神的狂気によって、日常性の正気を離れ、限りなく神秘的な美そのものを追い求め、また、自らも体現することが出来るのであります。” (諭吉倶楽部会報第21号掲載:天川貴之「哲学的愛」より)
「よくよく稽古を積むべきである」→技巧の習得→役作り→「神的狂気による神秘的な美の体現」
これを世阿弥は「よくよく稽古を積むべきである」との一言で伝えていたのである。
次回は能楽理論で重要な「時の花」と「まことの花」そして「しおれた花の美しさ」について
述べてみたいと考えている。(続)》
「あれ?次はいろいろなお花の話だから楽勝!と思ったら、“萎れた花の美しさ”だって。
また、難しい話になりそうだよ~。ちょっと休憩しよう。」