天川6)哲学随想:新時代の大学像(3)・・・18号

   「新時代の大学像」(3)

                                   天川貴之(H.3、法卒) 

第五節 徳高き理念エリートと真なる天才を創出する新大学像

現代社会には学歴重視の傾向があり、それは、ある面において、近代の日本の国家政策でありましたが、そのようなエリートが、大学の中において、更にその知性と共に求められるのがこの徳性であり、自己の知性というものを総合理念という観点から深く広くしてゆくだけではなくて、同時に、徳性というものを磨くことによって、本当の意味におけるエリートを育ててゆくことが、新時代の大学に必要なことではないかと思います。

リーダーにはリーダーの徳目というものがあり、リーダーにはリーダーの器というものがあり、その意味で、帝王学というものがあります。そのようなものを誇りを持って真に教え、それを学んだ方が、本当に天下国家のことを論じ、本当の意味で世界に通用する人材となり、そのような、日本の国益と世界の利益を真に増進せしめる優秀なリーダーを数多く輩出せしめるような母体となる大学を目差すべきでありましょう。

その意味において、戦後の日本において、リーダーの養成ということが十分でなかったということを考えてみても、今後の日本の大学に必要なものは、本当の意味でのエリート教育ではないかと思います。

そして、同時に、日本には、諸外国に追いつけ追い越せというものが学風となっている傾向があり、本当の意味での独創的な発想や独創的な研究やそのような天才を開花させる土壌が十分にあったとはいえないところがありますので、真なるエリートを養成するとともに、真なる天才を養成する大学理念というものが必要となってゆくのではないかと思います。本当の意味での理念エリートと、本当の意味での天才というものを創出してゆくことが、これからの大学のあるべき姿ではないかと思います。

本当の意味で新しき時代を創ってゆくのであるという志を立てて、数多くの有為の人材が全国から集まり、そして、その使命感と学業を修める精神態度、そして、その徳性から自然に尊敬を集め、徳望を集めるような、そのような新しき知的エリート集団を輩出してゆくこと、それが、新時代の学問の方向性であり、新時代の大学の最も大切な方向性ではないかと思います。

新しき国家百年の大計は、国家百年の大計をなさしむる教育から始まります。真実なる教育が本当の意味で行われる時に、自ずから、新生日本のビジョンが出来、新ミレニアムのビジョンが出来、有為の人材が数多く輩出するはずであります。

そのような熱気ある雰囲気を、志ある雰囲気を、理想とロマン溢れる雰囲気を、新しき精神的ジャパニーズドリームの潮流と為してゆき、そのような潮流の中で、新時代に向けて、新しき精神的ジャパニーズドリーム、新しきグローバルドリーム、新しきユニバーサルドリームを実現する大学の出現こそが、我々が切に望んでいるものであります。

~終わり~

拙著『新生日本のビジョン』第三部・文化編より

〔JDR総研代表:天川貴之〕

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   会報16号、17号に掲載されました「新時代の大学像」(1)(2)を参考資料として

   下記に掲載させて頂きました。                  (事務局:杉本)

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      「新時代の大学像」(1)(2)

天川貴之H.3、法・法律卒)

第一節 一なる「理念」へと諸学を止揚統合する精神

新しき大学の理念というものについて述べて参りたいと思います。新時代に向けて、新しき大学というものの骨格となる考え方が求められていると思います。大学とは、そこで一体何を学ぶべきであるか、そして、大学を通して、学生は何を探究すべきであるのか、それを根底から問い直す時期が来ているのではないかと思います。

大学というものの源を辿ってみますと、古代ギリシアのプラトンのアカデメイアに行き着くのではないかと思います。プラトンは、真理・イデアを知ることをエピステーメとなし、それを、真実なる知、真実なる学問の源とされたのであります。

すなわち、永遠不変にして変わることのない実在というものを探究する所から哲学が始まり、また、学問が始まっているといえるのであり、永遠不変なる実在・イデア、そして、近代に至っては「理念」といわれているものの探究こそが、学問の本質にあるものであるといってよいのであります。

こうした「理念の探究」というものを深く深くなしてゆくことこそが学問の核心でありますが、理念というものは、一つの法則でありながらも、同時に多様なる現われを持つものであって、この理念というものを様々に認識する哲学者や思想家や学者やこうした方々によって、その理念の個性的真理も色合いを様々にしているものであって、それは、古今東西、様々な理念として、真理として顕れているものであります。

しかし、その真髄は一なるものであり、一なる法則であります。あたかも一つの太陽を様々な方が様々な角度から観るが如く、理念というものも、様々な多様性を持って分かれているものでありますが、その本来の姿は一なるものであります。かかる一なるものの探究を学問は目差してゆくものであって、大学は目差してゆくものであります。

学問というものは、本来、一なる法則を体系化したものでありますから、本来、哲学も、政治学も、経済学も、法学も、経営学も、医学も、科学も、教育学等も、すべての学問は、一なる法則において軌を一にするものであります。そのような根本的な精神に立ち返って、一なる理念を通して諸学を統合してゆくことこそが、新時代の大学に必要な精神ではないかと思います。

今までは、様々に分かれて専門化して、それぞれの学問分野がバラバラに認識されており、それらがお互いに相矛盾するがごとく捉えられていたけれども、新時代においては、諸学を統合し、一なる理念、一なる真理へと止揚してゆく精神的な態度というものが、新しき学問の態度として新生されてゆくのであります。

それは、ある意味においてはプラトンの原点に還るということでもあり、またプラトンの学問が様々に現代に至るまでに分化したものを、その多様性を尊重し、その個性の色合いを尊重しながら、なおかつ、一なるものへと帰一せしめ、一なる真髄たる真理を探究してゆくということが、新時代の大学の探究する方向性として大切なことであるのであります。

第二節  「総合理念」の探究を学問の柱に据えよ

様々な学問分野別に分かれている所の多なる理念が、本来一なる理念であり、その意味において、総合された理念であり、この「総合理念」こそが、あらゆる学問の源にあるものでありますから、諸学を超えて、様々に学問の源にある所の理念を、統合的に認識して、総合的に把握してゆく学部が今後必要になってくるのであります。

それは、現代においては、学部の教育を超えて、大学院などでは高等理念の探究ということを通じて言われることが多いといえましょうが、学部の中においても、「総合理念」という学部が必要なのではないかと思います。

現在においては、哲学と科学が矛盾するのではないかとか、哲学と経済学は矛盾するのではないかとか、法学と経済学が矛盾するのではないかとか、様々な矛盾ばかりが取り沙汰されておりますけれども、その矛盾を、「絶対矛盾の自己同一」といわれるが如く、真に止揚して、一なる理念へと統合し、その観点から新たな学問を創造してゆくことが、新時代においては必要となります。

諸学に現われている所の理念を止揚し、新たな学問理念として統合し、全く新しい学問を創り出してゆく源は、「総合理念」という考え方であります。何ごとも、理念があって政策があるように、総合理念の探究に裏打ちされて初めて、総合政策という学問領域も真にその命を得、生きてゆくものであると思います。

政治の分野におきましても、理念なき政策がないように、また、政策なき理念が力を有さないように、理念と政策というものは、両方が補完し合って一つの真理の体系を形成するものであり、実社会に実現してゆくものでありますから、総合理念と総合政策というものを新時代の学問の柱に据えるということは、非常に大切なことであろうと思います。

~つづく~

第三節  真なる実学の精神の重要性

プラトンに始まり、ヘーゲルに終わる所の「理念」そのものの探究という姿勢と同時に、近代のアメリカを中心に、「プラグマティズム」という実学重視の学問的潮流が現われてまいりました。

理念の探究は高尚であって、それは実社会とかけ離れた所でその探究が進んでいきがちでありますけれども、このプラグマティズムの考え方を導入することによって、学問の真理を真に応用し、理念を応用し、実社会へと生かし、実社会への有益性を高め、実社会との密接な連関関係を持ちながら、具体的に実社会を変革してゆく原動力となってゆくという思想であり、これは非常に大切なものではないかと思います。

アメリカの産学共同などの、学問を本当の意味で成功させている源は、この実学の精神にあるのであり、アメリカなどでは、学問と実社会というものは相互作用し合って、お互いに個性を持ちながらも、お互いを生かし合い、そして、実社会に役に立つ学問というものが、常識となっております。

日本においても、福沢諭吉以来、実学の精神というものが尊ばれ、実学の精神の下に学問の応用と社会的有益性というものを高める考え方が出ておりますけれども、これは、新時代に向けて、更に具現化されてゆくものであろうと思います。

現代社会におきましては、特に情報革命と言われるがごとく、情報化社会が革命的に進展し、社会の基盤を大きく変革してゆくものとなっているが故に、この情報分野の中に特に応用されてゆくことが必要であり、また、そのような社会に役に立つ有用な学問を学生も心得てゆくことが、実社会に出るに当たっての条件となってゆくのではないかと思います。

その意味において、語学であるとか、情報的なものであるとか、そうした様々なコミュニケーションの手段を真に磨き、社会的実用性を学問的有用性の観点から身に付けてゆくということは、日本のこれからの学問を考えるに当たって大切な観点ではないかと思います。

第四節  新時代の大学生に要請されるもの ~「理念と実学」両者の探究と徳学の修養~

しかし同時に、学生の学生たる本分は真理の探究にあり、深き教養の蓄積にあり、幅広き教養の蓄積にあり、様々な古今東西の叡智を通して己を磨き、己を開墾し、そして、人生の根を培う所にありますから、学生時代において、深い、広い、高い教養を様々な面から育むことは大切であり、その意味において、総合理念という学際領域において学ぶことも大切ではないかと思います。

学生時代は、総合理念に象徴される理念を限りなく学びながら、同時に、総合政策に象徴される所の実学を同時に極めてゆくことが大切ではないかと思います。その両者を極めてゆくことが、実社会に出てから、本当の意味においてリーダーとして世の中で役に立つ上で、大切な観点であろうかと思います。

実用性の学問のみを修めている学生は、人間的な深い所において真に自己を修めているとも言えず、真に世界観、人生観を獲得しているとも言えない所があり、実社会に出て、本当のリーダーとなってゆくに際しての必要な教養というものは、学生時代の間から培っておく必要があろうかと思いますので、この実学と理念の探究という、この両者を学生の本分にしていただき、そして、それを大学時代に自然に尊重し、学んでゆくような環境を整えてゆくことが、新時代の理想的な大学像ではないかと思うわけであります。

そして、大学というものの中に求められてゆくものは、限りなく「徳」を磨いてゆく精神態度ではないかと思います。現在、大学はレジャーランド化しているといわれますけれども、大学というものは、ただ単に知識を衒う場所であってはならず、また、遊び場所であってはならず、良く学び良く遊べといわれるがごとく、高度な知識欲と、そして、様々な人生経験と交友関係を築くとともに、また、青春を謳歌するとともに、何よりも、徳というものを根本に据えて人徳を磨いてゆく精神態度が必要ではないかと思います。

青春の青春たる所以は、限りなき志と限りなく徳を磨いてゆく、そのような純粋なる理想の中にあるのではないかと思います。ですから、まず、志を学生の間に立て、そして、自らの人徳を磨いてゆくという意味における学問を、学生の間になしていっていただきたいと思います。もちろん、それが始まりとなって、実社会の中でも活きてゆき、それは続いてゆくものでありましょうが、鉄は熱い内に打てといわれるがごとく、学生の間から、この徳学を真に修めている方と、修めていない方とでは、多くの開きが出てくるように思います。

~つづく~

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(第5節に続き終了)

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