天川4)哲学随想:新時代の大学像(1)・・・16号
「新時代の大学像」(1)
天川貴之(H.3、法・法律卒)
第一節 一なる「理念」へと諸学を止揚統合する精神
新しき大学の理念というものについて述べて参りたいと思います。新時代に向けて、新しき大学というものの骨格となる考え方が求められていると思います。大学とは、そこで一体何を学ぶべきであるか、そして、大学を通して、学生は何を探究すべきであるのか、それを根底から問い直す時期が来ているのではないかと思います。
大学というものの源を辿ってみますと、古代ギリシアのプラトンのアカデメイアに行き着くのではないかと思います。プラトンは、真理・イデアを知ることをエピステーメとなし、それを、真実なる知、真実なる学問の源とされたのであります。
すなわち、永遠不変にして変わることのない実在というものを探究する所から哲学が始まり、また、学問が始まっているといえるのであり、永遠不変なる実在・イデア、そして、近代に至っては「理念」といわれているものの探究こそが、学問の本質にあるものであるといってよいのであります。
こうした「理念の探究」というものを深く深くなしてゆくことこそが学問の核心でありますが、理念というものは、一つの法則でありながらも、同時に多様なる現われを持つものであって、この理念というものを様々に認識する哲学者や思想家や学者やこうした方々によって、その理念の個性的真理も色合いを様々にしているものであって、それは、古今東西、様々な理念として、真理として顕れているものであります。
しかし、その真髄は一なるものであり、一なる法則であります。あたかも一つの太陽を様々な方が様々な角度から観るが如く、理念というものも、様々な多様性を持って分かれているものでありますが、その本来の姿は一なるものであります。かかる一なるものの探究を学問は目差してゆくものであって、大学は目差してゆくものであります。
学問というものは、本来、一なる法則を体系化したものでありますから、本来、哲学も、政治学も、経済学も、法学も、経営学も、医学も、科学も、教育学等も、すべての学問は、一なる法則において軌を一にするものであります。そのような根本的な精神に立ち返って、一なる理念を通して諸学を統合してゆくことこそが、新時代の大学に必要な精神ではないかと思います。
今までは、様々に分かれて専門化して、それぞれの学問分野がバラバラに認識されており、それらがお互いに相矛盾するがごとく捉えられていたけれども、新時代においては、諸学を統合し、一なる理念、一なる真理へと止揚してゆく精神的な態度というものが、新しき学問の態度として新生されてゆくのであります。
それは、ある意味においてはプラトンの原点に還るということでもあり、またプラトンの学問が様々に現代に至るまでに分化したものを、その多様性を尊重し、その個性の色合いを尊重しながら、なおかつ、一なるものへと帰一せしめ、一なる真髄たる真理を探究してゆくということが、新時代の大学の探究する方向性として大切なことであるのであります。
第二節 「総合理念」の探究を学問の柱に据えよ
様々な学問分野別に分かれている所の多なる理念が、本来一なる理念であり、その意味において、総合された理念であり、この「総合理念」こそが、あらゆる学問の源にあるものでありますから、諸学を超えて、様々に学問の源にある所の理念を、統合的に認識して、総合的に把握してゆく学部が今後必要になってくるのであります。
それは、現代においては、学部の教育を超えて、大学院などでは高等理念の探究ということを通じて言われることが多いといえましょうが、学部の中においても、「総合理念」という学部が必要なのではないかと思います。
現在においては、哲学と科学が矛盾するのではないかとか、哲学と経済学は矛盾するのではないかとか、法学と経済学が矛盾するのではないかとか、様々な矛盾ばかりが取り沙汰されておりますけれども、その矛盾を、「絶対矛盾の自己同一」といわれるが如く、真に止揚して、一なる理念へと統合し、その観点から新たな学問を創造してゆくことが、新時代においては必要となります。
諸学に現われている所の理念を止揚し、新たな学問理念として統合し、全く新しい学問を創り出してゆく源は、「総合理念」という考え方であります。何ごとも、理念があって政策があるように、総合理念の探究に裏打ちされて初めて、総合政策という学問領域も真にその命を得、生きてゆくものであると思います。
政治の分野におきましても、理念なき政策がないように、また、政策なき理念が力を有さないように、理念と政策というものは、両方が補完し合って一つの真理の体系を形成するものであり、実社会に実現してゆくものでありますから、総合理念と総合政策というものを新時代の学問の柱に据えるということは、非常に大切なことであろうと思います。
~つづく~
(JDR総合研究所代表:天川貴之)
拙著『新生日本のビジョン』第三部・文化編より
________________________________________________________
〔第一節文中の単語「エピステーメ」という言葉について少し調べ質問をさせて頂きました。杉本〕
エピステーメ:(〔哲〕知識。特に、生成消滅する現象界について成立するドクサ(臆見)に
対し永遠不変の存在について成立する学問的知識をいう。:広辞苑より)
(天川)
~ちなみに、「エピステーメ」とは、イデア(理念)に対する知のことで、
プラトンが、これこそが真なる本当の知であると主張した知のことで、~
〔杉本)
*「エピステーメ」のご説明ありがとうございました。
わりとよく使われる言葉「イデア」について、知っているつもりになっていましたが、
念のため「イデア」についても辞書で調べてみました。
「姿・形の意。プラトン哲学の中心概念で理性によってのみ認識されうる実在。感覚的世界の個物の本質・原型。また、価値判断の基準となる永遠不変の価値。近世以降、観念、また理念の意となる。」
とありました。
ここでは、「イデア(理性によってのみ認識されうる実在)に対する知のこと」
と考えていいのでしょうか?
また、「プラトンは感覚的世界を実在(客観的に存在するもの)の影に過ぎず、
その背後のイデアを真の実在と考えた。」
と辞書にありましたが、
なら、「エピステーメ」とは、「真の実在(イデア)に対する知(真なる本当の知)」
ということでいいのでしょうか?
(天川)
この度、御質問のございました「エピステーメ」の意味に関しましては、
全く杉本様の解釈の通りです。
元々、エピステーメとは、ドクサ(臆見)の対の言葉として、
「本当の知」を意味する言葉として使われていましたが、
プラトンは、真善美等の「イデア」(現代では「理念」と呼ばれる)こそが
真なる実在であり、吾々が五官を通じて認識している現象界はその影にすぎず、
この永遠不変の真実在である「イデア」を理性によって認識することこそが、
本当の真なる知(エピステーメ)であると主張しました。
このように、「本当に在るものとは何か」(実在論)ということが、
ソクラテス、プラトン以来の哲学の根本テーマの一つであり、
これ以降、真善美等の「イデア」(理念)など無いと主張し、
嘲笑する、いわゆるソフィストと言われる人々の価値相対主義と、
真善美等の「イデア」(理念)の実在を説くソクラテス、プラトンらによる
価値絶対主義の論争が連綿と続いてきたというのが哲学の歴史です。
ちなみに、この真善美等の「イデア」(理念)を理性によって真に認識して、
「イデア」(理念)と一体となり、「イデア」(理念)を体現した状態のことを
「徳」と呼び、ソクラテスは、このように、真善美等の「イデア」(理念)を
真に認識し体現した状態こそが、人間が目差すべき最も理想的な境地であると
主張し、これを「知徳合一」と呼びました。
このように、真善美等の「イデア」(理念)の実在を認める立場からこそ、
人間の「道徳」というものが導かれることは明らかであり、これが故に、
ソクラテス、プラトンが、人類にとって哲学の祖と呼ばれてきたのであり、
現代の哲学は、残念ながら、このソクラテス、プラトンの精神を見失いつつある
というのがその実情ではないかと思いますし、このことが、現代社会の様々な問題、
特に、その道徳的価値の混乱と崩壊につながっているようにも思われます。
以上、非常に簡単な説明で恐縮ですが、杉本様の何らかの御参考になれば幸いです。
(杉本)丁寧なご説明、どうもありがとうございました。