天川3)ベートーベンについて~大学時代に綴った小論考(3)・・・15号

「ベートーベンについて」~大学時代に綴った小論考~(三)   

                             天川貴之(1991、法卒) 

■ 1988-9-22

これらの二点(愛と病魔)からベートーベンの創造活動の時代区分を試みよう。まず、1792年から1801年までのウィーン時代である。この時期は、外的にはオーストリアの政情が不安定になったけれども、ベートーベンに関しては、貴族達に手厚く保護され、ウィーンでの華やかな社交生活にひたったようであり、ダンスの稽古をしたり、1795年には歌手マグダレーナに求婚したりしたそうである。ある意味では、彼にとって最も華やかで、幸福な時代であったかもしれない。彼は初めは名ピアニストとして活躍している。そのためか、この時期には、有名なピアノ・ソナタが多く生まれている。私はこの時代を「ピアノ・ソナタの時代」と呼びたい。1798年には有名なピアノ・ソナタハ短調《悲愴》が生まれている。この曲は、名こそ悲愴であるが、若く、病魔にも迫られていなかったせいか、後の作品のような深刻な悲愴感はなく、あくまでも、青春時代のロマンティックな美しい詩情が表現されているようだ。次に、何といっても、ベートーベンのピアノ・ソナタで有名なのは、1801年の嬰ハ短調《月光》であるのだが、この曲の背景には、吟味しておかなければならない大きな変化がある。一つは、この曲が捧げられたジュリエッタ・グィチュアルディに対するベートーベンの愛である。ヴューゲラーに宛てた手紙に、彼は「僕は彼女を愛している。2年このかたの初めての幸福な瞬間がやって来たのだ。」と語っている。この曲には愛が込められていることは確かである。第一楽章のロマンティックな静けさと第三楽章の情熱的な激しさとの対比で恋愛感情の機微が妙く表現されているのは興味深い。ただ、私は、最初に聴いた時、(ベートーベンというイメージから類推して)「何か奥深く、永遠に続く、絶望に苦悩している心情がよくでているなぁ。」と感心したことがあるが、レコード紹介に「恋愛の曲」と書いてあったから、思い直して、「そう言われれば、静かな心の湖に愛の波紋が薄く広がってゆくような感じにもとれる。」と考えた。しかし、私の初めの感想も、こうやってベートーベンのことを調べてゆくと、あながち間違っていなかったことにも気付く。1801年には、ヴューゲラーとアメンダに難聴を訴える手紙を書いている。恐らくは、この頃から病魔がひどく彼を襲い、彼はどこかで不安と苦悩におののいていたに違いない。だからこそ、それを親友に打ち明けたのであろう。こうして見てゆくと、月光はベートーベンの愛の想いのもとに創られたが、その奥には、彼が同時に感じていた苦悩と不安の波紋もまた、自然と恋愛の中に流れ込んでいたのかもしれない。いや、むしろ、人は病んだ時にこそ人恋しくなるものである。彼は、その病の苦しさゆえに、ジュリエッタを愛したのではないだろうか。それならば、苦悩や不安を甘く打ち明けるように彼の心境を曲にしたものが《月光》であったのではないだろうか。

次には、1803年から1809年までの復活、全盛の時代である。このハイゲンシュタットの遺書から、翌年の英雄交響曲への飛躍は奇跡だと言われる。しかし、天才の創造活動とはそのようなものかもしれない。一番深い闇にぶちあたった時、そこから夜が明けてくるように、彼もまた、そこから強大なエネルギーを迫出したのかもしれない。何が彼をそこまであおりたてたのか、私は知らない。それは、“英雄”の名のとおり、ナポレオンの存在だったかもしれないし、そうではないかもしれない。ただ、「遺書」といっても、彼はそれを自殺を決意して書いたものではない。もちろん彼は何度かそれを考えただろうし、また、“自分の死”を、特に“自分の作曲家としての死”を、彼は凝視せざるを得なかったであろう。しかし、遺書を書いた時には、彼はむしろ、生きて生きて生きることを決意したようだ。運命に総てを委ね、残された自分の天命に生き、残された自分の才能に精一杯生ききることを誓ったようである。この死を見据えた人間の迫力と、どんな逆境にも立ち向かってゆこうとする偉大な意志と使命感こそが、後の壮大な交響曲を生んでゆくのである。英雄交響曲しかり、運命交響曲しかり、田園交響曲しかりである。私はベートーベンのこの時代を「交響曲の時代」と呼びたい。

また、多々の作品の創造の背後で激しい恋愛がエネルギーとなっていることも見逃せない。この時期には、彼がピアノを教えたテレーゼとヨゼフィーネ姉妹にそれぞれ恋をしている。特に、ヨゼフィーネとは、1804年来、熱い恋に陥っているようだ。

この後の1813年頃から1816年にかけては、ベートーベンにとっての「スランプの時代」であるようである。もちろん、この原因は、内臓疾患や難聴がひどくなったことや甥のカールの後見問題等が挙げられるが、恋愛方面でも、1812年の「永遠の恋人への手紙」にまつわる恋愛の絶望も大きな原因の一つとなっているのかもしれない。ベートーベンは、相当真剣に愛したようである。その相手は、1810年にシュタッケベルク男爵と結婚してしまったヨゼフィーネとも、同年に求婚を断られてしまった姉のテレーゼとも、また、1811年頃から知り合ったアントニーエとも言われているが、確かなことは分からない。ただ、その恋愛も、今までの幾多の恋愛と同じく破局に終わったようだ。そして、これでどうやらベートーベン自身は望んでいたにもかかわらず、結婚を断念したようである。彼は、結婚への諦めと同時に、彼のインスピレーションの源泉となっていた愛の対象を失ってしまったのではないであろうか。それが彼のスランプの原因と考えるのは単純であろうか。いや、ゲーテやハイネを見れば分かるように、芸術を創り続けるということは、常に何かを愛し続けることなのである。あんなに一生に渡って多くの人達を愛せたからこそ、ゲーテやハイネは一生に渡って幾多もの芸術を創造しえたのである。ベートーベンもまた、失ったインスピレーションの源泉を、あの時期に探しあぐねていたのかもしれない。

最後に、ベートーベンの晩年の時代を考えてみたい。彼は、1811年以降、急激に健康状態が悪化して、病床についたり、つかなかったりの生活をしている。しかし、驚くべきことに、彼はこの時期に、ミサ・ソレムニスや、彼の最高傑作といわれる合唱付交響曲などを作曲している。そこには、芸術家としての執念・気迫が感じられる。彼は時代と戦い、高らかに人間の勇気と尊厳をうたいあげた。もはや「合唱」には神々しく人類の全精神を導くような力さえ感じられる。私はこれを人生における「勝利の時代」と名付けたい。                              以上

(天川貴之:JDR総研代表)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.