天川 貴之(48号):哲学随想7~「人生の苦悩とその中から生まれる思索的叡智について」

【哲学随想7】

 

「人生の苦悩とその中から生まれる思索的叡智について」

   天川 貴之(H.3、法 卒)

 

人間は、様々な悲劇を人生という舞台の中で経験する。しかし、そのことによって魂は磨かれ、高められてゆくものであるが、そのためには、自ら哲学的思索をなして、それらを哲学的真理へと昇華してゆくということが、とても重要なことであるのである。

哲学によって意味づけられることによって、人生に意味が生じ、価値が生じてゆくのである。それ故に、哲学とは、人生に道をつけてゆくことであり、同時に、世界に道をつけてゆくことであると言える。たとえ、どのような悲劇と観えるようなことであっても、哲学に昇華されてゆくことによって、そこに、魂を磨く道があるのである。

人生の中には、様々な苦難が生じてくるものであるが、その折に、哲学は、そのような人生の苦難に耐えるための支柱のような役割をすることが多い。哲学によって自分自身の人生を客観視することが出来、そこから生まれてくる真理によって、心が慰められることもあるのである。

このように、人生の苦悩とは、我々がより深い真理を思索するためのよすがであるのであり、その深き真理というものによって多くの人々の魂を救い鎮めてゆくためには、それが様々な苦悩の中で培われた真理であることが必要なのであろう。

人生を生きてゆく上で、苦悩を味あわない人は居ない。人生の本質とは苦悩であるといってもよいであろう。しかし、苦悩によって鎮められた魂は、そこから幾多の真理を彫琢してゆくのである。

人生とは、そもそも、魂を磨き、魂に様々な哲理を思索させるために用意された舞台装置のようなものであるのかもしれない。このような苦悩とみえるものによって、人間は人生を問うようになる。そして、人生を何とか超克しようという心構えが出来てくるのである。故に、人生の苦悩そのものが、我々人間の人生の本質を暗示しているものであると言えなくもないであろう。

歴史上の人物を振り返ってみても、また周囲の人物を眺め渡してみても、苦悩のない人生など皆無に近いのである。苦悩のただ中に居て、人間は、その苦悩から脱却するために様々な思索をしてゆくのであり、創造活動そのものをなしてゆくのである。

我々人間の人生の多くの真実は、苦悩と直面するように仕向けられているかのように観える。しかし、ベートーベンが、難聴という逆境のただ中で、だからこそ独自の作曲をつづけたように、様々な逆境に見舞われたとしても、それが故の独自の思索や創造をしてゆくことこそが、人生の真骨頂でもあると言えるのである。

故に、様々な逆境に対して、たとえ受け身で受けとめざるをえなかったとしても、哲学的精神においては、大いに能動力を発揮してゆくべきである。哲学的に思索したことこそが、哲学者にとっては、人生の意義そのものともなるものであり、その意味においては、何の問題意識も与えないような環境においては、かえって、真の哲学者は創られないのかもしれない。このように、苦難の中で培われた真理のみが、他の多くの苦難の中に居る同胞達の心の慰めとなり、救いとなってゆくのである。

哲学的に生きてゆくということは、その都度その都度、人生の道標を創りつづけて、登山してゆくようなものである。多くの魂達にとって精神の糧になるようなものを遺しつづけてゆくことが、人生を生きる意義でもあるのである。

その意味で、人生の苦悩とは、独り、自分のための苦悩に終わらないのである。それは、多くの人々の苦悩を共感するための苦悩でもあるのである。

故に、そこに同苦同悲の心が生まれて、そこから、慈悲としての智慧が生まれてゆくのである。多くの魂達の苦悩を鎮め、昇華してゆくためにこそ、自らに相応の苦悩が与えられるのである。その苦難を克服してゆく過程で、他の多くの魂達が必要な真理を得てゆくことにもなるのである。

苦悩から脱却する道の一つは、苦悩そのものを諦観するということである。そして、苦悩そのものに積極的意義を発見して、自らの哲学を磨くということである。このように、苦悩を哲学によって鎮められた自我は、滅却されることによって昇華され、数多くの智慧(認識)を生み出すようになる。真なる智慧(認識)とは、このようにして鎮められた自己が、世界を映す鏡のようになって映し出し、思索し、結晶化されるものであるのである。

人生とは苦でもあるという自覚があったならば、そこに、何が起ころうとも動じない心が生じてくる。そもそも、人生とは、苦悩を運んでくる舞台装置のようなものでもあることが分かったならば、それ相応の心の準備が出来るであろう。

誰もがこの苦界に投げ出され、その中で、智慧を求めて、道を探究しているのである。そして、客観的に観れば、そのような中であるからこそ、魂が実によく磨かれているのであろうとも思われるような、芸術的な舞台ともなっていると思われる。

また、古の哲人達の遺された哲学も、相応の苦悩の中で培われたものがほとんどであることを考えてみても、その哲学の価値を形成する人生の諸要素の一種が、人生の苦悩であるとも言えよう。

このように、思索することによって、人生の苦悩は昇華され、人生の真理となって結晶してゆく。また、それは、他の哲人の人生の真理を吸収してゆく動機ともなってゆくのである。

また、たとえ、外からは苦悩がなさそうな人であっても、現実には、数多くの苦悩をかかえていることも多い。このような人生の真実から目をそらさずに、その中で、人類の眼として、人類の精神として、思索出来る限りのことを思索してゆくのが、哲学者の務めである。様々な苦悩を超克して、様々な智慧の結晶を育むことが出来たならば、それだけでも生きた価値があると言えるのである。

自らの苦悩も、他の多くの人々の苦悩を共感するためにあるのであると理解したならば、苦悩そのものに勇敢に立ち向い、または諦観し、そこから一つでも多くの真理を思索しようと心がけてゆくようになるであろう。

思索を透徹してゆけば、何ものにも左右されない哲学的幸福感と哲学的境涯というものが生まれてゆく。それは、「叡智的幸福」である。地上にありながら地上を超克した境涯である。地上にある様々な苦悩を、あたかも丘の上から見おろすように達観出来たならば、それも思索的営為の賜であろう。

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