天川29 )新生日本建設の時代4)・・・40号

    新生日本建設の時代(4)

     戦後見失ってきた三つの柱の再興

                        天川 貴之(91、法・法律)

第四節 日本的精神の不在について

第三に、戦後日本に見失われてきたものとして「日本的精神」を挙げたい。日本国が失ったものが、「日本そのもの」であるとすれば、これは、戦後の悲劇の最たるものであると言えよう。

敗戦によって、あまりにも日本的なるものに対して過敏に否定的になりすぎ、心の奥に何かしらの劣等感と罪悪感を抱くということは、日本人としては、本来の姿を見失っていると言えよう。

日本人である限りは、自然な感情として、日本の国を愛し、そして、日本の歴史と文化に誇りを持ち、さらに自国をよい国にしてゆくことを以って、全世界に貢献してゆくことが、普通の日本人の志であってよいはずである。

それは、ある家に生まれたら、まず、その家族を愛し、その家風を誇りにしながら、地域社会に貢献してゆく、ということと同じであり、まず、自己の立脚点を固め、純粋に愛してゆくということは、大切なことであるのである。

かのウェイン・ダイアーは、「自分自身を真に愛することが出来る者が、真に他者を愛することが出来る。」と述べておられるが、日本人として、日本国を愛し、日本文化を愛し、日本的精神を愛することが出来る者が、真に他国の文化や精神を愛することが出来るのである。

戦後七十年の歩みの中では、ともすれば、日本的になることは、排他的になることであり、好戦的になることであり、独善的になることであるという見解が持たれがちであったが、これは、過去の強烈なコンプレックス故の、幾分、歪曲した見方であると言えよう。

日本を愛し、益してゆくことが、同時に他国を愛し、益してゆくことになるということ、利自の精神が、同時に利他の精神になるということが、本来の天の道である。

戦後七十年を迎える今の時期は、日本人が徐々に日本らしさや日本的ライフスタイルや日本的なる商品開発に目覚めつつある潮流が出てきているように思われる。それは、戦後七十年の復興の実績によって、日本人が本来の自己信頼を取り戻しつつあるからであるとも言える。

また、海外においても、戦後は、経済大国日本に注目が集まっていて、海外の方々の関心と興味は、日本の中にある西洋的なるものではなくて、日本の中にある、より一層、日本的なるものに集中しているように感じられる。

まさしく、日本的なるものが、二十一世紀において、世界の流行となる時代が到来しているのである。こうした時代においては、まず、日本人自身が自らを問い直さなければならない。

日本人の個性とは一体何なのか、数千年の歴史を経て、様々な個性ある表情を見せてきた日本の歴史の中で、変わらない普遍的なる精神とは一体何なのか、ということを、よくよく反省してみることが、今の時代の要請なのであり、未来の時代への戦略なのである。

私は、日本的精神の特徴を最もよく表しているものとして、以下の五つの柱を挙げてみたい。

第一には、「天皇制」である。天皇制は、敗戦によって、確かに象徴天皇制になったものの、国民の精神的統合の象徴として、今もなお残っており、国民の大部分が自然な感情を持って敬意を表している。

外国の歴史を調べてみても、数千年続いた王朝というのは存在しない。何故、日本の天皇制のみが、かくも永続的な生命を保ちつづけてきたのであろうか。その意味を探求してゆくことが、日本的なるのの真実を探求してゆく時の一つの鍵となると思う。

私は、天皇制が日本人の心の中に生きつづけてきたのは、その精神の日本的神聖性にこそ求められるのではないかと思う。ただ単に現世的な権力構造だけでは、数千年の歴史を持つことは不可能である。

天皇制の背後には、確たる「実在」としての日本的理念があり、不動の天意があるのだろう。だから、どんなに現象の歴史が移り変わろうとも、不朽なる永遠の生命を持ちつづけてきたのだと思う。

特に、日本人であるならば、やはり、内面において、日本を司る神々への深い敬虔な気持ちを抱き、常に敬意を持ちつづけてゆくことが、日本のよき伝統を守り育ててゆくことにもなるであろう。

第二には、「古事記」である。古事記は、現代においては、数多くのフィクションを伴う古典的歴史書として認識しておられる方が多いと思うが、フィクション的であるということは、また、象徴的であるということでもあって、事実以上に日本的理念を、より一層、鮮やかに映し出すことも出来るのである。

その意味においては、過去においても、古事記は不滅の日本的理念の宝庫でありつづけたように、現代においても、未来においても、日本的なる精神を考えるにおいて、欠くことの出来ない理念的宝庫であると言える。

現代の歴史書は、実証的事実のみを記すことをもって客観的価値ありと考える見方が多いが、文化的価値という視点から観ると、より象徴的に、より直観的に描かれたものの方が、深い確かな理念的価値を描き出していることが多いのである。

第三には、「万葉集」である。日本は、古来より大自然と共に芸術的に生きてきた民族であり、国民がすべて詩人であるような文化的伝統があったのであり、これは、世界に誇るべきものであると言えよう。

天皇から庶民に到るまで、詩によって一つに結ばれ、国家全体として、妙なる音楽の調べを奏でている歴史を持つ国が他にあるであろうか。

しかも、その言葉は「言霊」と呼ばれ、限りなく神秘的なるものとして尊重されてきた。言語の中に神秘性を感じ取るという伝統は、西洋においても、「ロゴス」としてあったが、日本においては、より一層、感性的であり、独自の鋭い直観力を持っていたと言えるのである。

現代においては、あまり言葉の持つ深い意味と神秘性について考えられることが少なくなったが、これは、ある面においては、言語的退化現象であるとも言えるのである。

日本的精神について考えをめぐらす時には、必ず、この「言霊」の伝統に着眼し、未来に向けても、より精錬された伝統として、再興し、伝えてゆくべきものではないだろうか。

また、国家が詩において一つになるという優雅な伝統に、忙しさの中で精神的余裕を失いつつある日本人は、もう一度、回帰するべきではないかと思う。

第四には、「武士道」である。かつて戦前の学生は、カント哲学と共に、「武士道」を座右の銘にしていたというが、戦後においては、武士道について語られることが少なくなった。

確かに、武士的要素の薄くなった現代社会においては、それは不要の長物と一見みえるかもしれないが、その背後にある精神的理念については、今もなお、現代に生かせる永遠の日本的精神があるように思う。

たとえば、個人主義や平等主義の行き過ぎに対しては、師や両親への礼節や忠孝の精神が、かえって見直されなくてはならないのではないだろうか。

また、自我我欲やエゴイズムの横行する世界においては、大いなる志に対して無我になる心の必要性が見直されなくてはならないのではないだろうか。

また、家庭の崩壊が、現代アメリカにおいても、現代日本においても社会問題になっているが、これに対しては、「家」の大切さ、先祖への敬いの心が見直されなくてはならないのではないだろうか。

特に、大志を抱く精神態度は、現代にも、新しい志士道精神として再興されるべきではないかと思う。

第五には、聖徳太子の「十七条の憲法」である。その中で「和を以って尊しと為す」という日本的伝統が述べられているが、特に、日本神道と仏教と儒教とキリスト教のそれぞれを敬い、尊重し、学んでゆく大調和の態度は、日本的精神の最高の強みであり、また、今も脈々と息づいていると言えるであろう。

戦後七十年の現代においては、戦前七十年の最も日本的(東洋的)であろうとした精神と、戦後七十年の最も西洋的であろうとした精神が止揚され、大いなる大調和の中で統合される時期が来ている。その時期に大切な日本的精神態度が、この聖徳太子の「和」の態度であると思う。

現代において、我々は、日本的なる精神を再興し、さらに、西洋的なる精神と融合止揚させてゆくことによって、独自の日本的スタイルを創造してゆかなくてはならない。それが時代的使命である。

明治維新と敗戦に続いて、現在は、第三の開国の時期にあたっていると云われるが、こうした地球時代の日本に求められる姿とは、全世界的なる精神を基盤にしながら、日本独自の個性の華を咲かせてゆくということである。

大いなる世界精神を共通項に持ち、共に地球人としての愛の自覚を持ちながら、同時に、限りなく個性的になってゆかなくてはならない。

個人においても、人類愛を基盤に持ちながら、各自が独立自尊の独自の理念的アイデンティティを持って生きることが国際人に求められているように、日本もまた、独立自尊の独自の「新生日本精神」の理念をしっかりと把持しながら、国際協調国家への道を歩んでゆかなければならない。

一なるものが多となり、多なる個性が一なる愛としてまとまった理想的地球時代において、「新生日本精神」の華が美しく華咲くことを何よりも念願する。

(続く)

(天川貴之:JDR総合研究所代表・哲学者)

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