天川21 )新時代のスポーツマンによせて・・・32号

「新時代のスポーツマンによせて」

 天川 貴之(91、法・法律)

スポーツの中にも理念があり、哲学はあるのである。スポーツにおける「真」の理念とは、勝利の法則を探究することであり、その中には精神的要素も大きいといえるのである。また、「善」の理念とは、スポーツマンとしてのモラルであり、礼節であり、倫理である。そして、「美」の理念とは、スポーツをする過程で生ずる技の完成美である。

そして、比類なき業績を残したスポーツマンは、例外なしに、自らの信条、自らの哲学を持っているものなのである。何故なら、人間は、あくまでも精神的存在であり、かかる精神的支柱なしには、勝負という厳しい競争の世界を勝ち抜いてゆくことは出来ないからである。

各分野で超一流の選手というものは、例外なく強靱な精神力の持ち主なのである。何故なら、練習の継続とは、まさしく修行そのものであり、相当の克己心なしには、継続することは出来ないからである。まさに、プロのスポーツマンの自己管理の厳しさは、宗教界の禅の修行僧以上のものもあるといえよう。何故それ程までに厳しい自己鍛練の道を歩むことが出来るのかといえば、やはり、そこに相当の精神的信条があり、信念があるからであるといえるのである。

これより、超一流のスポーツ選手に必要な精神態度について述べてゆきたい。まず第一に、大和魂というが如き気概である。これがなければ、スポーツにおいて、つらい修行に耐え、勝利の栄冠を獲得することはできないのである。大いなる精神力の強靱さは、磨けば磨く程に強くなってゆくものである。そして、数年、十年、二十年、三十年と一貫して修行してゆく過程で、たとえ肉体が衰退したとしても、精神力は無限に向上してゆくものである。この精神力は、年齢を経ても、確かな実力となるものであり、栄光となるものであるので、一生を通して磨いていっていただきたいと思う。

第二に、平常心を持つことである。闘魂を持ちながらも、淡々として歩むことが大切である。平凡な一日一日の積み重ねが大切である。そして、どのようなことがあろうとも、心が揺れない不動心を培ってゆかなければならない。勝負の世界においては、心を大きく揺らした方が負けるのである。例えば、かの厳流島での宮本武蔵と佐々木小次郎の対決においても、佐々木小次郎の心の乱れが主な敗因であるといえるのである。故に、常日頃から心を整え、平静な心を保つことを訓練しておかなくてはならない。

第三に、情熱である。情熱とは、そのスポーツを真に好きになる所から生じてくるのである。そして、また、勝利の目標を設定し、それに対して燃えるが如き願望を持った時に、ふつふつとふつふつと湧き昇ってくるのである。かかる熱き血潮がなくて、真に勝利者となることは出来ないのである。より一層の情熱を燃やせば燃やす程、それは炎の如きオーラとなってその選手を包み、大いなる奇跡の力を生じせしめる源となるのである。

第四には、無我の心である。これは無念無想の境地を始まりとするものである。あらゆる自己の妄念をぬぐい去った時に、明鏡の如き、澄みわたった心が生じてくるのである。かかる時に初めて真に相手の動きを読み、自己の動きを的確に読むことが出来るのである。そして、真に無我となった時に、神技の如き天衣無縫の技が生じてゆくのである。どの動きにも無駄がなく、的確でいながら、平凡な発想では出来ないような神技を発揮するのは、かかる瞬間なのである。

第五には、積極的な精神態度である。これは成功哲学の要であるが、それはまた、勝利の哲学の要でもあるといえるのである。ともすれば、勝負にとらわれて、しかめ面の玉砕精神を持っている方も多いが、実は、かかる心は、負けている心の表情を自らつくり出しているのと同じなのである。勝負にあたっては、「必ず自分は勝利するのである」という、積極的で、肯定的で、明るい精神態度を持たなくてはならないのである。

第六には、信念である。どのような困難に遭遇しようとも、どのような壁が立ちはだかろうとも、決して後退することなく、己が道を前進しつづけるという決意である。そして、自らの道に全身全霊を賭けて打ち込んでゆくという精神態度が大切である。

まさしくこれは立派な「道」であり、自己の個性を体現した理念ある目標を設定し、これをどこまでも追求してゆくことである。かかる「道」を発見し、「道」に最期まで生ききろうとする所に、最高の信念が生じてくるのである。己が道を信じ、それを念いとして放射し続けることが、大いなる精神エネルギーとなってその方を成功させ、立派な選手として成長させてゆくのである。

第七には、愛である。これは、自己の訓練を、独り自己満足に終わらせてしまうのではなく、常に多くの観客を喜ばすために、さらには、国威を高揚させる程に、奉仕させていただくという精神が大切なのである。自分が目立ちたいだけでやっているのは単なる自己顕示欲でしかないが、多くの人々のために奉仕してゆくことは、それは、愛なのである。大いなるサービス精神の発露としての愛を体現されている選手は、万人から愛されるのである。その優れた技の輝きは、大いなる愛の光を纏った時に、最高の光となって結実するのである。結局の所、そのスポーツ選手の成果とは、どれだけ多くの人々を喜ばせ、勇気づけてさしあげることが出来たかという点において測られるのである。

第八には、美である。神が人間にスポーツを予定して創造されたということは、どの技も最高度に洗練されたものは美しいということでわかるのである。最高の機能的有効さが、最高の美の完成として顕れるということは、それは、人間の芸術そのものである。男性の場合はより雄大なる美しさとして、女性の場合はより優美なる美しさとして顕れる。また、その人その人の個性的美しさというものもあり、かかる美しさを発見し、追求してゆくことも大切なことであるといえる。

第九には、礼節ということである。スポーツの世界というものは、人間の戦いの場を文化化したものであるともいえるが、また、「道」として昇華したものであるといえるが、この要こそが礼節なのである。礼節なきスポーツマンは、いかに剛く、いかに技に優れていようとも、優れたスポーツマンとはいえないのである。強くなればなる程に、その技が完成すればする程に、礼節を高めてゆかなければならないといえるのである。礼節とは、スポーツマンとしての気品であり、高貴さであるといえるのである。スポーツマンとして自然なる魂の高貴さが漂ってきて初めて、真の王者となることが出来るのである。

第十には、「永遠の今」に生きるということである。一瞬の中に永遠を感じる体験こそが、スポーツマンの至高経験の瞬間といえるのであり、これを少しでも多く経験してゆくことが、最高の境地へと登ってゆく道なのである。

そして、常に「永遠」を心底感じとれるが如き瞬間を、競技の内に起こせるようになった時に、その人は、永遠の香りを多くの人々に垣間見せることの出来る永遠のスターとなっているといえるのである。まさしく、星の星たる所以は、その永遠性にあるといえるのである。

真に時代が高揚する時というのは、スポーツの世界もまた、時代の旗ふり役として大いに高揚し、きら星の如き選手が出現してくるものである。かつてギリシャのアテネが最も高揚した時に、オリンピックが最も高揚し、数多くの歴史に残るスポーツ選手が輩出したように、新しきジャパニーズドリームの先導役として、数多くのスポーツ選手達が、真に、善に、美に活躍されることを、希望の念いで見守っている。

(天川貴之:JDR総合研究所代表・哲学者)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.