奥村3) 私の好きな諭吉の文章(4)・・・(25号)
「私の好きな諭吉の文章」(4)
奥村一彦(80年経済卒)
今回は、福沢諭吉の抱腹絶倒の文章を紹介したいと思います。諭吉の文章は、はじめからおもしろさや皮肉を狙った時事新報掲載の「漫言」やペンネームで韜晦して(五九樓仙萬、宇宙生など)、くだけた文章を書いたりします。今回紹介する文章は、狙いはまじめ一方で、しかしわかりやすく人に伝えるために文字通り腹を抱えて笑わせる文章を紹介します。
1 私が、福沢諭吉の文章を読んで、心から笑った最初は『日本婦人論 後編』(明治18年)です。
「今日諸方の新聞紙を見ても、遊郭が繁昌するとて、之がために世間の家内にて婦人が大いに乱暴したりとの話は少なけれども、何れかの家に男子が跳り込み、刃物もて婦人を害したり、其原因は男子が其婦人の云々を邪推し、逆上して右の始末なりなどとは、毎度聞く所にあらずや。男子の性急にして嫉妬深きこと、或はこれを評して執着獅子の発狂し易き者と云うも可ならん。今、試みに女大学の文をそのままに借用し、唯文中にある男女の文字を入れ替えて、左の如く記したらば、男子は有難くこの教えに従ふべきや。其覚束なきは、吾々が殊更に言わずとも、日本国中の男女とも等しく心に合点する所ならん。
男は嫉妬の心努々(ゆめゆめ)発すべからず。女淫乱ならば諫むべし。怒り怨むべからず。妬み甚だしければ其気色言葉も恐ろしくて冷(すさま)じくして、却て婦人に疎まれ見限らるるものなり。若し婦人に不義過あらば、顔色を和らげ、声を雅らかにし諫むべし。諫を聴かずして怒らば、先ず暫く止めて、後に婦人の心和らぎたるとき復た諫むべし。必ず気色を暴くし、声をいららげて、婦人に逆らひ叛くことなかれ。
日本の男子に命じてこの教えを守れと云わば、必ず大不平にして、箇様に窮屈なることなれば此世に生まれたる甲斐なしとまで憤ることならん。左れども男にして生まれ甲斐なければ、女の身に取りても亦甲斐なし。」 『日本婦人論 後編』
こういうのをコペルニクス的転回というのでしょう。天と地をひっくり返す、男と女を入れ替えて読むなど誰が想像したでしょう。視点を完全に逆転させた訳です。福沢は男と女が同一の権利・地位をもっていることは天賦のものであることをいささかも疑うことなく、一歩も譲りません。男を陽で、女は陰などいう儒教の教えなど「戯言(たわごと)」「空論」といって徹底的に破壊します。
その態度は具体化して迫ってきます。女性の春情自由を解放せよ、財産を与えて責任を与えよ、結婚は女性が男子の家に嫁するにあらずと言います。福沢は「夫婦混合姓」「夫婦別姓」を提案します。
「又新婚を以て新家族を作ること数理の当然なりしとて争ふ可らざるものならば、其新家族の族名即ち苗字は、男子の族名のみを名乗るべからず、女子の族名のみを取るべからず。中間一種の新苗字を創造して至当ならん。例へば畠山の女と梶原の男と婚したらば、山原なる新家族と為り、其山原の男が伊東の女と婚すれば山東と為る等、即案なれども、事の実を表し出すの一法ならん。
斯くの如くすれば、女子が男子に嫁するにも非ず、男子が女子の家に入りたるにもあらず、真実夫婦の出会ひ夫婦にして、双方婚姻の権利は平等なりと云うべし。或いは夫婦の不幸、離別死亡等に由て再婚三婚するときは、其時に随って族名を改め煩雑なりとの説もあらんか、若しも然るときは、夫婦各別に己が父母の族名を用ひ、二人合したる処にて合併の族を名乗りて可ならん」 『日本婦人論』
『日本婦人論』の最後の一文は奮っています。「速やかに日本女性の鎖を解くことに尽力す可きものなり。」。
2 次は、『福沢文集』の「売薬論」です。
この「売薬論」はまことに痛快。短いので全文を読むことをお勧めします。今でも日本各地で売っている怪しげな混ぜモノは、福沢のこの売薬と異ならないかもしれません。
「然るに其調合の品物は何と尋るに、猫の児の黒焼きもあり、蛇の首の干物もあり、なお甚だしきは火葬場の油煙もあらん、便所の凝結もあらん、鼻汁に等しき水薬に、耳の垢に等しき散薬、其正味の話を聞きては胸もわるくなり、これを懐中するも穢きもの多し。これより少しく立ち上がりて薬らしき薬と云えば、蝲蛄石(らっこせき)とか葛粉とかを台にして、様々雑物を手当たり次第に引搔きまぜ、薄荷油でぴりつかせて、麝香の香りを少しく移し、人の舌先と鼻に当て込んで売り付くる趣向なり」 『売薬論 二』
これがために福沢は薬剤業者から訴えられて、第一審敗訴、第二審敗訴、大審院でようやく逆転勝訴となったとのことです。民間療法という名の様々な健康食品やサプリメントなど流行は衰えません。テレビ新聞インターネットでも売り込み攻勢はいよいよ勢いを増しています。福沢の言う、正しき診断を経て、正しき薬の処方もあるべきでしょう。この福沢のコキ下ろしを楽しみましょう。
3 最後は『学問のすすめ』の第17編「人望論」です。「人望論」は、『学問のすすめ』の一番後ろにくるので、もしかしたら読み落とされているかもしれません。でも私はこの「人望論」は大好きで、読み返すたびに、福沢先生はやはりエライ人だなあと感心します。人望を得るためには朗らかな顔をせよというのです。今で言う、人は顔や見かけが90%などというキャッチフレーズのハシリでしょう。
「人の顔色は、猶家の門戸の如し。広く人に交わりて、客来を自由にせんには、先ず門戸を開きて入り口を洒掃し、兎に角に寄り付きを好くするこそ緊要なれ。然るに今、人に交わらんとして顔色を和するに意を用ひざるのみならず、却って偽君子を学んで殊更に渋き風を示すは、戸口に骸骨をぶら下げて、門の前に棺桶を安置するが如し」
『学問のすすめ』第17編「人望論」
福沢先生の人間世間一般すべてに見識をもっていたことに感心します。この「人望論」は、3つのことを述べます。まず、言語を学ぶこと、次に顔色容貌を快くすること、最後に、広く様々な職業や階層の人々と交わることの大切さ、を述べます。言語を学ぶことでは、婦人にも子供にもよくわかる言葉を選んで使いなさいということを強調します。その下りで、かつて明六社に集った森有礼が日本語を廃して英語国民にしようなどと言ったことを「取るにも足らぬ馬鹿を云う者あり」と批判します。
4 福沢諭吉の書いたおもしろい文章は、いわば無尽蔵にあります。その一端を紹介し、福沢の幅の広さを知っていただければ、また、読書の愉しみも増えるという趣向で、今回は終わりたいと 思います。
次は、ジャンルはめちゃくちゃにして、福沢のすごい文章をあれこれ取り上げたいと思います。
以上
(奥村一彦:弁護士、京都第一法律事務所)