天川18)和歌における言霊(ロゴス)の真義について(2)・29号

「和歌における言霊(ロゴス)の真義について」(2)

~短歌の新世紀を拓く~

              天川貴之(91、法・法律卒)

第四節  「和歌と言霊の創造力について」

和歌には「言霊」の実現力が実在するのである。和歌には一つの「宇宙」が実在するのである。一つの「生命」が実在するのである。その一首は、まさしく、一体の神像であり、仏像であり、ギリシャ彫刻の理念(イデア)の像と同じなのである。

一見、短い詩であるように思えるものも、よくよくその本質を観ずれば、短いが故に、その「伝統的形式」の内に、全ての全てを刻印することが出来るのである。その中に、その方の人生の全ての全てを創造することが出来るのである。

そして、究極においては、本来、和歌一首において、「言霊」による天地創造を成すことが出来る程の可能性を有しているのである。そして、教育的見地から観れば、和歌は、人間の神性、仏性、理性、良心を目覚めさせ、内奥なる理念的実相、個性的実相を顕現せしめる力を有しているのである。

故に、真なる和歌の実力を培うことを通して、日本精神の真髄を学び、情緒を培い、「言霊」に対する感性を培い、「言霊」を通して、無限無数の天の栄光を地上に顕現してゆこうではないか。

和歌によって、物心共なる繁栄も、平和も、幸福も、健康も、愛も、希望も、勇気も、エネルギーも、全ての全ての善きものを、真に幸えさせてゆこうではないか。

その意味において、「光明祈念歌」の実力を磨いてゆきなさい。「光明祈念歌」を通して自らを育み、他者を愛し、社会を愛し、日本国を愛し、地球を愛し、銀河を愛し、大宇宙を愛してゆきなさい。

まさしく、かの山上憶良が述べられたように、日本国は、「皇神の厳しき国」であり、「言霊の幸ふ国」そのものなのである。和歌を通して、君民一体となった無限無数の幸えを地上に顕現してゆくことこそ、「大和(だいわ)の国」の理想そのものである。

真なる「光明祈念歌」の実力を、己が「言霊」の実力、己が精神の実力そのものとして、己が「心境」そのものとして磨いてゆかれれば、真に日本国の運命が開拓され、真に地球の運命が開拓されてゆくのである。

第五節  「和歌とロゴス性について」

~「理念」的象徴表現の真義とは何か~

「哲学的真理」の観点から、「和歌とロゴス性」について探究してゆきたい。

「理念」とは、本来「ロゴス」である。故に、永遠普遍の真理たりえるのである。かのソクラテス、プラトン、アリストテレス以前の時代においては、ヘラクレイトス流の「無常観」と、諸々のソフィスト流の「価値相対主義」が主流を成しており、「無常」の中にあって、変転することのないもの、即ち、「理念」(イデア)の実在というものが実質的に否定されており、非常に底の浅い「価値相対観」に基づく、ソフィスト達のイデオロギー的言論というものが横行していたと言えるのである。

現代社会においても、「価値相対主義」に基づく無常な言論が横行しているし、その中にも、それぞれに一片の理は実在するけれども、全き「理念」そのものを、「真理」そのものとして「理念言論」されている方は、ほとんどおられないというのが現実である。

故に、本当の「正しさ」や「正義」というものが、極めて軽薄なイデオロギー的手段のために使用されていると言えるのであり、その「概念」の内奥を深く観ずることなく、表面的なイデオロギー的「概念」に酔っているだけのような言論と世論が横行していると言えるのである。

本来、「自由」であっても、「平等」であっても、「博愛」であっても、日本国の「天皇」であっても、「グローバリズム」であっても、「大和の哲学」であっても、もっと奥の深いものであると言えるのである。

これらの諸概念の奥には、すべて、「理念的生命」が活き活きと実在しているのである。しかし、本物の「理性の輝き」をもって観じてゆかなければ、その真姿を観ることも出来ず、表面的な底の浅い矛盾対立抗争を招いてしまうのである。

これは、単なる「理性の輝き」の不在であり、真なる哲学者の不在であり、真なる「理念」の不在から生じている必然的現象であると言えるのである。

故に、「対処療法」ではなく、「根本治療」してゆこうとするならば、根源的な哲学的課題から論じてゆかなくては、真に大成した「理念国家」が創成されてゆくとは言えないのである。

「和歌」というものも、本来「ロゴス」そのものである。「禅」において、一行の言霊の中に、大宇宙、大自然の理法が「ロゴス」として秘められているように、「和歌」の中には、本来「言霊」が実在し、大宇宙、大自然の理法が「ロゴス」として秘められているものなのである。

故に、その「ロゴス」によって、天地人が真に鳴動してゆくのである。これを、「真理」性のある和歌、「ロゴス」性のある和歌、即ち、「理念和歌」と位置づけてよいであろう。

かの西行や松尾芭蕉やゲーテ等が「詩」の中に探究されたものは、「ロゴス」性そのものなのである。絶対精神たる「理念」は、哲学の中だけでなく、宗教の中にも、芸術の中にも宿っているべきものであり、本来、「理念」性のない文学や芸術というものは、古典的価値が非常に薄いものであるとも言えるのである。

かのイエス・キリストの「言霊」は、すべて「詩」でありながら、「ロゴス」であり、その中に、永遠普遍の「理念」性が秘められているであろう。かの臨済や、無門や、ルソーや、エマソンや、西田幾多郎等の「言霊」は、すべて、「詩」でありながら「ロゴス」であり、その中に「理念」性が秘められているであろう。

これこそ、真に生命を照らす光明そのものである。永遠普遍の「理念」そのものである。生命の根源的実在そのものである。「天の摂理」そのものである。

人間とは、本来、「理念的実存」であり、「理念的実存」であることが、他の動物と区別される点である。故に、真なる「理念的実存」たる人格の証明として、「理念」のある真の哲学、真の宗教、真の芸術の真贋を見極め、真なる「正しさ」と、真なる「正義」と、真なる「真理」そのものを如実知見し、是々非々に論じてゆこうではないか。「真」なるものを「真」なるものとし、「偽」なるものを「偽」なるものとし、「真理」を証してこうではないか。

この高度な知的作業を、本来の「理念の革命」というのであり、「光ある時に光の内を歩め。」というのである。「光」とは、「理念」であり、「ロゴス」であり、「真理」であり、「永遠普遍の実在」であり、「時代精神」であり、精神の「太陽」である。

故に、真なる大和の哲学の象徴たる「和歌」の中に、奥深い「理念」性、「ロゴス」性が探究されるのは、本来当然のことである。そうでなければ、「絶対精神」の顕現として、真なる「古典的芸術」として成立しないからである。

「ロゴス」性のある「和歌」こそ、真なる歴史の風雪に耐えうる「理念和歌」である。たとえ直接的に「概念」で述べられていなくとも、「象徴」的表現によって、真なる「ロゴス」性が発見されたならば、それこそ、全人類史上の真なる「芸術的古典」であると同時に、「哲学的宗教的古典」と成りうるものであろう。

「和歌」という一大伝統文化の中に、真なる「理念」(ロゴス)を、優れた象徴的表現をもって顕現させてゆけば、かつてのゲーテやエマソンやルソー等が真に成功した一大「理念」文学ルネサンスが「和歌」の中にも真に顕現し、「西行」「芭蕉」以来の、さらには、それをも超える一大光明ルネサンス運動が、「和歌」を通して顕現し、新時代の絶対精神そのものが、「和歌」を通して真に「天孫降臨」し、諸神、諸仏、諸理念(イデア)と成って、真に「生命の鳴動」を成してゆくことであろう。

そこにこそ、新生日本ルネサンス運動、新生地球ルネサンス運動の運命の開拓を成してゆく真なる「鍵」が実在しているのである。

真に「光ある時に光の内を歩め」。「光を掲げよ」。「革命の時期は来た」。理念和歌繁栄大革命の新時代は、既に開闢されていたのである。

結   「和歌のすすめ」

~和歌を通して理想郷を実現せよ~

諸君よ、 雅やかなれ。心にもののあはれの心を持て。一年の様々な心の風景に対して、万感の想いを込めて和歌を創れ。諸君らの心の内に駆け巡った感動を和歌に託せ。

どのような立場で、どのようなことをしていても、和歌を通して、大いなる天の心と結ばれていよ。そのままの素直な感情を歌に託せ。心の中に一番印象に残った光景を、言霊の写真の中に刻印せよ。

和歌の和歌たる所以は、和の心を本質としている所にあるのである。「和を以って貴しと為す」という国是における和の心を真に探究せよ。和歌を通して、本来の和の心の原点に立ち返れ。

どのような人生の立場においても、その時期にしか詠めない歌というものがあり、真なる和歌を通して、天なる神々が人々の魂を救ってゆかれることもあるのである。真なる「言霊」を乗せた和歌が、天を動かし、地を動かし、人々を動かしてゆくということが、大和の国の伝統文化の一つなのである。

故に、和歌を通して、心の平和を実現せよ。和歌を通して、心の調和を実現せよ。和歌を通して、心の理想郷を実現せよ。和歌を通して、どこまでも大和の国を探究せよ。大和なる世界、大調和なる理想郷を顕現せよ。

かの明日香の風も、心の故郷である。かの古事記の風も、心の故郷である。「今」の時代、平成の御代も、永遠普遍なる心の故郷となってゆくことであろう。

和歌を通して、イデアの国、理念の国、アルカディアの国を地上に顕わしてゆけ。必ずや、天の御心が諸君らの心を永遠に救われ、天へと導かれるであろう。あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。(完)

(天川貴之:JDR総合研究所代表・哲学者)

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参考資料

     「和歌における言霊(ロゴス)の真義について」(1)

~短歌の新世紀を拓く~

         天川貴之(91、法・法律卒)     

「短歌の新世紀を拓く」という観点から、新ミレニアムにおいて、過去に捨て去るべきもの、そして、これから育てるべきものについて点検し、「新世紀」を拓く新しい論を、「哲学的評論」として成してゆきたいと思う。

本論文においては、「和歌」という言霊が積極的に用いられているが、この言葉は、もとより「短歌」という言葉と矛盾するものではない。

「短歌」とは、本来、「和歌」の一部門であり、古来より文化的伝統があるものであって、基本的に、「短歌」を根本から論ずるということは、「和歌」を根本から論ずるということであるので、本論文においては、「和歌」という言葉で統一している。

第一節の「和歌と心境について」においては、和歌(短歌)にとって最も着眼するべき点は、言葉の奥にある作者の「心境」そのものであり、必ずしも、表面的な「修辞学」ではないということを論じている。

真に真心に訴えるものこそが、永遠普遍の和歌(短歌)の生命であり、それは、よく生きる魂の糧であり、生命を照らす光明であるということが、訴えたいことの本旨である。

第二節の「和歌と感受性について」においては、優れた感性や、優れた感受性や、優れた洞察力を培ってゆくことが、心身共なる「美しさ」を磨き、「美しい国」を創ってゆくために肝要であることを、「新世紀」の情操教育のあるべき姿から論じている。

第三節の「和歌と理念価値について」においては、和歌(短歌)の果たすべき国際的文化史の中における世界遺産貢献の道について論じている。

これは、「文化大国日本」の運命開拓の鍵となってゆく哲理であり、和歌の中に、積極的に「理念価値」を礼拝してゆくことが、心身共なる繁栄の大道となってゆく可能性について論じている。

第四節の「和歌と言霊の創造力について」においては、「言霊の幸ふ国」という「言霊」の真義について探究し、「光明祈念歌」としての「和歌」(短歌)という分野に、新しい「道」を拓いてゆくことの大切さを論じている。

第五節の「和歌とロゴス性について ~『理念』的象徴表現の真義とは何か~」においては、和歌には、本来、根本哲理(ロゴス)があるべきであるということを論じている。これは、人間という実存に、本来、永遠普遍の根本哲理(ロゴス)があるべきであるということと同趣旨である。

その意味において、基本的に、二十世紀は哲学的真理が軽視された時代であり、二十一世紀の運命開拓の鍵は、哲学的真理を復興(ルネサンス)してゆくことにあるのであるという根本信条を述べたものである。

さらには、「和歌」(短歌)が、桑原武夫氏の述べられたような「第二芸術」ではなく、絶対精神(理念)の顕現としての「根本芸術」の大黒柱と成ってゆくことを、世界的普遍哲学の観点から論じたものである。

以上を、本論文の全体構造の骨子として呈示した上で、和歌における「言霊」(ロゴス)の真義について、順次述べてゆきたい。

第一節  「和歌と心境について」

「和歌」というものは、日本語特有の形式によって生まれる芸術である。日本においては、古来より、千年以上の歴史の中で鍛えあげられてきた一つの「道」であると言えよう。

一般的に「道」というものは、まず、形から入って、形を覚えなければならないものである。その中に、私は、「和歌」という形式に対する芸術としての安定感を感じるのであるが、一定の習熟を得た後には、今度は、「自分らしさ」を表現することが大切になってくる。

これは、「道」と名の付く芸術一般について言えることであろう。形がしっかりしているが故に、自分自身を真に活かすことが出来るのである。秩序があるが故に、より一層、個性を生かすことが出来るのである。

さすれば、真に自由自在となった個性は、何に向かうべきなのであろうか。それは、自己独自の芸術的感動というものであろう。しかし、何に対していかに感動し、それをいかに伝えるかということに関しては、無数無限なる道程がある。

私は、ここで特に大切な観点は、自分の芸術的感動がいかなる「境地」にあるかを知ることであると思う。すなわち、「歌境」の自覚である。

結局の所、和歌を通して得るものは「歌境」であり、和歌を通して追究するものも「歌境」であり、和歌を通して磨いてゆくものも、己が精神(心情)の「歌境」なのである。

宗教が求めるものが「宗教的境地」であるとすれば、哲学が求めるものも「哲学的境地」であろうと思う。同じく絶対精神の文化遺産とされる芸術が求めるものも「芸術的境地」であり、その一部門である「和歌」も、かかる「芸術的境地」を、ひたすらに追究してゆかなければならないのである。

「境地」というからには、確かに何段階かの上下の段階があり、横の個性的広がりもあるはずである。こうした境地は、微妙に、確実に歌の表現の中に出てくる。

言葉には言霊があると古来より言われてきているが、まさしく、歌境によって、言霊の響きが全く異なってくるのである。

一見、表面的には同じような和歌に見えても、よくよくその歌境の奏でる音楽を聴いてみると、聖俗には無限の開きがあるものなのである。

和歌の究極には、「歌聖」への道があるのである。

第二節  「和歌と感受性について」

知識中心の教育の中で、忘れがちなものが「感性」の教育である。フランス文化やイタリア文化に学び、さらに、新生日本ルネサンスの潮流を創ってゆくにあたって心がけなればならないものは、洗練された感性をいかに磨いてゆくかということである。

優れた感性というものは、優れた感受性から生まれる。優れた感受性とは、大和民族が古来より培ってきた文化の特質でもある。

かの俊成の和歌にしても、定家の和歌にしても、洗練された究極の感性がなければ、決して開拓出来ない世界であったであろう。

感性の世界も、幅が広く、奥が深く、高みは富士の如く高峰である。そこには、知性の世界や、力技の世界とはまた違った厳しさが実在する。

そして、本来、知性の巨人や武道家の巨人に近づきがたい畏怖の念いを憶えるのと同様に、感性の巨人には、一種の畏れを感じられなければ、むしろ、己が感性の領域が磨かれていない証明になってしまうのである。

幽玄の極みを尽くした和歌は、その一首にて一つの世界を創造し、一つの「結界」を創造し、そこに一つの「涅槃」を創造し、そこに一つの「神の国」を創造してゆく。

一言一言の「言霊」の中に、音楽も、絵画も、彫刻も、建築も、小説も、戯曲も、人生も、世界も、歴史も、未来のビジョンも、すべてのものが込められている。

そして、その一首が、あたかもインターネットのアドレスのように、異次元世界の時空へと、我々の魂を誘うのである。

かの千利休の厳しさは一体何であろうか。かの世阿弥の厳しさは一体何であろうか。かの池坊の厳しさは一体何であろうか。かの伊勢神宮の「美」における厳しさは一体何であろうか。ここに、「美の結界」が生まれているからである。

故に、畏れの心をもって、「美」に対して慎まなければならない。畏敬の念の向こうに、果てしない「神の国」が実在するのである。

第三節  「和歌と理念価値について」

「和歌」というものは、日本文学、世界文学、宇宙文学を考えてゆく上で、最も貴重な全人類の遺産の一つであると言えるのである。

まず、「神代」から「現代」にまで継承され、さらに「新時代」にまで継承されている全員参加型の歴史文学が、他に実在しているであろうか。

「和歌」を通して観じてみれば、「天照大御神」がどのような品格を持たれた方であり、「須佐之男命」がどのような心情を持たれた方であり、「神武天皇」や「日本武尊(倭建命)」や「弟梯比売命」がどのような心情を持たれた方であるかということは、如実知見されるではないか。

もし、これらの「和歌」がなければ、『古事記』等の文化的価値も、全く違ったものとなったことであろう。

逆に、「和歌」があることによって、国際的日本史の文化的価値が非常に高くなっていると言えるのである。

これは、在原業平を主人公としたといわれる『伊勢物語』にしても、藤原道長を主人公としたとされる『源氏物語』にしても、また、『平家物語』にしても、『西行物語』にしても、近代の「明治維新物語」にしても言えることである。

このような歴史上の人物達の心情を託された「和歌」が、その時代その時代に遺っていることによって、歴史の芸術的価値が飛躍的に向上し、「芸術繁栄大革命」として、真に「国益」と「地球益」と「宇宙益」を増進していると言えるのである。

このような文化背景をよくよく考慮した上で、これより後、新時代の新生日本ルネサンス、新生地球ルネサンス、新生宇宙ルネサンスの一環として、真なる「和歌繁栄大革命」を、国民一同、世界市民一同、真に成し遂げてゆこうではないか。(文頭・第4節へ続く)

(天川貴之:JDR総合研究所代表・哲学者)

・・・・・・・・・・・・・・・・・(完)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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