天川15 )現象と理念美について(1)・・・26号

     「現象と理念美について」(1)

                                                      天川貴之(91、法 卒)

第一節 デカルト哲学と自然美について

現象と理念美について述べてゆきたい。

まず、美というものを、自然美と芸術美に分けて洞察してゆきたいと思う。

自然美についてであるが、何故、自然の内に美を見出すことができるのかということについて考察したい。近代合理主義の流れの中では、デカルトに始まるように、自然というものを、生命や精神なき物質的なるものにすぎないという見方がある。

しかし、そのように考えていては、何故、自然の内に美を見出すことができるのかということに対して答えることはできない。何故なら、美とは精神的なるものであり、何らかの精神的なるものが自然の中に見出されなければならないからである。

そもそも、美とは、理念の一つの顕れであるという立場に立つならば、自然の内に、理念というべきものが見出されなければならないのである。

故に、デカルトに始まる近代合理主義は、人間の精神性と自然の物質性というものをはっきりと区別するが、人間が自然の内に美を観じるという以上、人間の精神と自然の奥なるものとの間に、何らかの相互作用を認めることが大切であり、その意味で、自然の中に、人間の精神と相互作用する何かを見出さなければならないといえるのである。

故に、自然を単なる物質的なるものと観る見方は、充分でないといえる。あくまでも、自然の奥なるものを観じてゆかなくてはならないのである。

第二節 カント哲学と叡智的直観について

カントは、『判断力批判』の中で、この自然の奥なるものについて、「合目的性」という観点から解釈している。しかし、主観的構成論の認識的立場から、人間の認識に限界を認め、自然の合目的性や美というものは、客観的に存在しているということはいえず、あくまでも、合目的性や美というものがあるかのように判断力によって認識されるにすぎないとされている。

しかし、先程、相互作用の認識論でも述べたように、美という理念の認識が可能なためには、人間の精神の内にも美(理念)が実在し、対象となる自然の内にも美(理念)が実在することが不可欠である。

私は、かかる観点から、自然の奥には美(理念)が実在することを認めたいと思う。この根底にある所の認識論上の立場は、「叡智的直観」である。

カントは、このような「叡智的直観」は、人間の能力には認められないとして限定をかけているが、人間の精神の内なる理念には、かかる高度な知的直観が存在するのであり、古今東西の理念(真善美聖)の把握のされ方をよくよく洞察してみれば、かかる高度な知的直観によるものが多いのである。

人間にこのような認識力を認めなければ、人間の大いなる可能性に限定をかけた哲学体系となってしまうおそれがあると思う。

第三節 シェリング哲学と現象と理念について

このように、人間の精神と自然の内に、理念(絶対者)を叡智的直観によって認識できるとした哲学者にシェリングがいる。シェリングの同一哲学は、人間と自然に同じ絶対者を見出すことによって、人間と自然と絶対者の同一性を基礎づけ、特に、ロマン主義の芸術理念に大きな影響を与えている。

しかし、シェリングの同一哲学も、美の哲学体系としては根本的な欠陥がある。それは、ヘーゲルも指摘しているように、シェリングは、すべてのものを絶対者の顕われとして認識できるとすることによって、質の違いをなくしてしまう所があるからである。シェリングの同一哲学は、新スピノザ主義ともいわれるが、その点において、スピノザの汎神論もまた、同じ誤りを犯しているといえる。

それを一言でいえば、現象と理念を区別していないということである。シェリングもスピノザも、現象そのものを絶対者の顕われと認識してしまう所に誤りがあるのである。

人間にしても自然にしても、その現象はあくまでも仮象であり、理念(美)ではない。現象の奥にこそ、真なる理念(美)があり、そこに、絶対者が実在するのである。

故に、デカルトのいう自然の物質性というのは、自然の現象について述べてあるのであり、シェリングのいう自然の絶対性というのは、自然の理念について述べてあるのであり、この両者を統合することによって、真なる自然観というものができるのである。

第四節 エマソン哲学と理念認識について

近代ロマン主義の芸術的思想家にエマソンがいる。彼は、何よりも自然に美を見出し、高度な精神性を見出している。彼の思想の中においては、自然を絶対者の象徴と把握している。そして、自然の象徴を解読してゆくことによって、自然を通して、絶対者の把握に到ることができると述べられている。

これもまた、自然を自然の現象のまま認識することではない。自然の象徴性を解読するということは、自然の奥なる理念を認識するということである。

エマソンは、まず、人間の奥には、無限なる精神性があるのであると直観した。それは、理念(真善美聖)であり、絶対者そのものである。この人間の内なる理念こそが、自然の象徴を解読し、自然の奥なる理念を洞察することができるのである。

すなわち、人間の奥なる理念美が、自然の奥なる理念美を認識するのであり、人間の内にも自然の内にも、現象を超越した理念美の実在を直観したのである。

このように、自然の奥には理念が実在し、真善美聖のすべてが実在するのである。例えば、真の中にも、哲学的真理や宗教的真理や道徳的真理や科学的真理などがあるが、これらのものが、自然の理念を認識することによって把握されるのである。

故に、自然と共に生きることによって、哲学者にインスピレーションが与えられ、宗教家に啓示が与えられ、芸術家に深い感動が与えられ、科学者にも新しい発見が与えられるのである。このような高度な創造力の源には、自然があるのである。

そして、科学者は、一見、自然の現象を解明しているように見えて、実はそうではないのである。自然界の「法則」を発見するということは、現象の奥にある理念そのもの、絶対者そのものを認識することを本質としているのである。故に、そこに、科学の理念価値が生じてくるのである。

また、芸術家は、一見、自然の現象を映しているようにみえて、実はそうではないのである。例えば、プラトニズムの立場からは、自然はイデアの影であるから、絵や詩などは、影の影を映し、表現する行為であるから、理念価値が少ないように解釈されがちであるが、実はそうではないのである。

芸術家は、現象の奥に美という理念を見出し、それを表現しているのであるから、充分に理念価値があることなのである。

このように、自然の中に美を見出すということそのものが、実は、現象を認識するのではなく、その奥なる理念を認識することに本質があるということなのである。

美という観点に立つならば、現象は本来ないのである。理念のみが実在であり、理念の中のみに、美は住まうのである。

故に、自然の中に美がある以上、そこに何らかの理念を見出しているのであり、自然の奥なる美の一端を見出しているのである。

第五節 理念美の段階性と個性の多様性について

そして、この美にも段階の違いがあるといえるのであり、それは、理念に段階があるのと同じである。本来の理念とは、絶対者そのものであり、真理そのものであるといえるが、同時に、理念にも顕現レベルに差があるということでもあり、その意味で、段階の差を、美そのものの顕現度合いに応じて表現することも可能であり、現実の実態的認識にも即しているものと思われる。

故に、自然の内奥に入ってゆけばゆく程に、自己の精神を深めてゆけばゆく程に、より大いなる美を認識することができるのである。

このように、究極の理念美を頂点として、理念美には段階があり、また、個性の多様性もあるものが自然美の本質であり、人間の奥なる美の本質なのである。

例えば、通常の方が「美しい」と観じた自然の理念美と、ゲーテやエマソンやルソーなどが「美しい」と観じた自然の理念美とは無限の隔たりがあるのであり、それが、境涯の差となっているのである。また、ゲーテもエマソンもルソーも、それぞれ個性を持った自然の理念美を観じており、故に、それぞれの自然に対する理念美の表現にも個性差があるといえるのである。

自然を見ても、現象を現象としか観ずることのできない方もおられるかもしれないが、そうした方にとっては、自然は美の対象にならない。そうした方は、精神の内なる理念美が未だ顕現していないのであるといえる。

精神の内なる理念美が顕現してゆけばゆく程に、いわば、美の境涯が上がれば上がる程に、自然の理念美は、自ずから輝き出すのである。

結論として、自然美については、現象の自然の根底には理念美が実在し、それは、人間の精神の内奥にある理念美の顕現度合いによって認識されるということである。       (続)

(天川貴之:哲学者、JDR総合研究所代表)

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