天川16 )現象と理念美について(2)・・・27号
「現象と理念美について」(2)
天川貴之(91、法 卒)
第六節 芸術美の本質について
次に、芸術美について考察してゆきたい。一般に、芸術の本質は美の表現にあるといえる。では、美とはどこにあるものなのであろうか。前述のとおり、究極の美とは、理念の顕れであり、究極の美とは、絶対者そのものである。
故に、美の根源にあるものは、絶対者そのものであり、理念そのものであるということを述べておきたい。
さすれば、美の探究とは、すなわち絶対者の探究であるといえる。究極の美への道とは、絶対者への道であり、究極の美の実現のためには、絶対者と一体にならなければならないといえるのであろう。
絶対者とは、天上的なるものの究極にあるものである。この天上的なるものを、イデアといい、理念と呼び、古来より近現代に到るまで、一貫して追究されてきたのである。
地上にあって地上にあらざるもの、天上的なるものを認識するということこそ、美の認識の原点である。
しかも、ここでいう天上的なるものとは、地上の現象を全く離れたものでもなく、地上の現象の内奥に実在するものであって、現象を通して、現象の内奥に認識できるものなのである。例えば、人間や自然という現象を通して、現象の内奥に認識できるものなのである。
第七節 芸術家の理念の輝きの段階性と多様性について
このように、理念美というものは、芸術が究極において追究しているものである。そして、前述したように、理念美にも、究極の理念美を頂点として、段階性と個性の多様性があるものであり、それを認識するものも、人間の精神の境涯、すなわち、内なる理念美の顕現度合いの段階と個性の多様性に基づいているのである。
例えば、絵画においても、レオナルド=ダ・ヴィンチが描いたイエス・キリストの絵画と、他の凡人のイエス・キリストの絵画とでは、そこに顕れている理念美が全く異なるのである。レオナルド=ダ・ヴィンチの描いたイエス・キリストの絵画には、まさに、絶対者そのものに近い理念美が顕現しているといえるのである。
同じイエス・キリストを例にとれば、ミケランジェロの創ったイエス・キリストの彫刻と、他の凡人のイエス・キリストの彫刻とでは、そこに顕れている理念美が全く異なるのである。
同じテーマに基づいても、イエス・キリストを通して顕現した究極の理念美そのものを、どのくらい高く広く深く観ずることができたかということにおいて、無限の開きがあったことを示しているのである。ミケランジェロの内には、偉大なる理念美が脈々と顕現していた証であるといえよう。
例えば、音楽においては、バッハの「マタイ受難曲」とヘンデルの「メサイア」を聴いてみると、両者が、イエス・キリストの理念美を非常に高く広く深く顕わしていることが分かる。しかし、最高のものであっても、「マタイ受難曲」と「メサイア」では、バッハとヘンデルの個性の差が明らかにあるといえるのである。
このように、人間として生きられて、現象の肉体の内に人類最高の理念美を輝かせられたイエス・キリストを題材にしても、その理念美をどこまで観じきり、どこまで表現しうるかということは、芸術家の精神の内奥なる理念の輝き如何によるのである。そして、その輝きが最高度のものであったとしても、個性独特の輝き方があるのである。
第八節 あらゆる芸術の頂点としての理念美について
そして、同一の理念美を、絵画を通しても、彫刻を通しても、また音楽を通しても表現できるということは、絵画も彫刻も音楽も、同一のものの異なった顕れであるということができるのである。
故に、すべてのあらゆる芸術の道は一なるものであり、一なるものに通じるといえるのである。その一なるものとは、理念美であり、イデア美である。
古今の哲学者達は、各々の芸術の形態を洞察して、その芸術をジャンル別に高下の序列をつける試みをおこなっているが、本来、すべての芸術は、どの道にも、等しい段階と頂点があるといえるのであって、どれが優れているとはいえないのである。絵画も究めれば、彫刻を究めたのと同じ高さにゆきつくし、音楽も究めれば、彫刻を究めたのと同じ高さにゆきつくのである。
このことを、日本では、「道」という表現が使われている。「茶道」にしても「華道」にしても「歌道」にしても、すべて道とつくものは、その段階と個性の差があり、その頂点に、究極の理念美(絶対者)があるといえるのである。
第九節 一見「美」の形式を崩した芸術の美について
以上、芸術の理念美について述べてきたが、芸術の中には、一見「美」の形式を崩したような美があるということについても探究しておきたい。
特に、現代芸術においてその傾向が多いが、その中には、一見美しくはないものの、高い芸術性が認められているものがある。例えば、ピカソのキュービズムの絵画や、マーラーの音楽などである。
その理由として、美を超えた「感動」をメッセージとして伝えたいという動機があり、それが形になったという考え方もあるであろう。
さらにいえば、「感動」の奥にあるものは、人生の本質、世界の本質についての深い洞察と表現ではないかと思う。
ピカソのキュービズムにしても、そのように表現することによってしか表せない人生の本質や世界の本質が、如実に表現されているといえる。
マーラーの音楽にしても、一見、不協和音とみえしものが、人生の暗い部分をよく表現しえているし、人生の闇の部分と光の部分を織りまぜたドラマ性を如実に表現しているといえよう。
このように、人生の本質、世界の本質を如実に顕わすことが芸術たりうるといえるのである。
では、これらの芸術観と理念芸術観は矛盾するのであろうか。私は、そうではないと考える。人生の本質も世界の本質も、「本質」であるという点において、理念に入るので、これらの芸術もまた、理念芸術であるといえるのである。
しかも、人生の本質と世界の本質を顕わした芸術作品は、一見不調和な表現も手段として用いるが、全体として達観した時に、通常の美とは一味違った、独特の美を感じさせるといえよう。
このように、芸術の本質とは美であり、それは、理念芸術によって真に顕わされるといえよう。
第十節 無限なる理念美へと飛翔し、表現せよ
これまで、自然美と芸術美について考察してきたが、共にその根底にあるものが理念美であるという点において、またそれが、絶対者の美であるという点において一致している。
いうまでもなく、自然とは絶対者が創られたものであり、芸術とは、絶対者の分身である人間が創るものである。絶対者とは無限自由なものであるが、人間とは、有限にして無限、不自由にして自由なものである。
私達は、この地上世界において、自然という絶対者の創造物の内にあり、無限の芸術性の中で、無限へと向かう有限なる人間の芸術が、人間独特の味わいをもって創られてゆくのである。大いに自然に学び、無限へと飛翔し、限りなく無限なる精神の美、理念の美を地上に表現してゆかなくてはならない。
私達は、現象の内にあって、現象を超えなければならない。そして、理念へと到らなければならない。そして、理念の立場から、理念美を地上に表現してゆかなくてはならない。理念美と一体となって、理念美そのものとなって、生きてゆかなくてはならない。それこそ、真に美しい人間の生き方である。
〔注解的続編〕
一、 理念哲学の代表として挙げているプラトンやヘーゲルの哲学においても、自然の奥なる精神性、理念は、充分に探究されているとはいえない。その中にあって、エマソンは、自然の奥に積極的に精神性、理念を認めているといえよう。例えば、プラトンにとっては、自然とはイデアの影以上の何物でもなかったが、エマソンは、自然の内に積極的に絶対者の象徴性を見出し、自然を通して絶対者と合一する道を説いたのである。
二、 エマソン等が述べるように、自然の奥なる理念美を観ずるためには、自我を虚しくし、無我の境地になって、自然の奥なる理念美と合一しなければならない。これは、自然の奥なる理念美と、無我故に顕れる人間の奥なる理念美との主客合一の境地であるといえよう。かかる境地においては、エクスタシーが感得されるのである。
三、 釈尊が成道の時の悟境として、「山川草木国土、悉皆成仏」と観じられたのは、自然の奥なる理念美が、悟りの結果顕れた精神の理念美に照らし出されることによって、観じられたことをあらわしているといえよう。これに類する境地を、禅などでは「見性」という。この場合は、芸術的見性と名付けてもよいであろう。このように、仏教の自然哲学は、本論文中の自然哲学と軌を一にしているといえよう。
四、 精神の内奥なる理念美の顕現とは、いわば芸術的悟りであるといえる。故に、悟りに多様なる境地と段階的階梯があるように、芸術的悟りにも、多様なる境地と段階的階梯があるといえるのである。
五、 こうした理念美の段階説は、プロティノスの哲学に近いものがあるといえよう。まさしくプロティノスは、「一者」(絶対者)を頂点としながら、イデアに段階を設けたのである。
(天川貴之:哲学者、JDR総合研究所代表)
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(資料)
「現象と理念美について」(1)
天川貴之(91、法 卒)
第一節 デカルト哲学と自然美について
現象と理念美について述べてゆきたい。
まず、美というものを、自然美と芸術美に分けて洞察してゆきたいと思う。
自然美についてであるが、何故、自然の内に美を見出すことができるのかということについて考察したい。近代合理主義の流れの中では、デカルトに始まるように、自然というものを、生命や精神なき物質的なるものにすぎないという見方がある。
しかし、そのように考えていては、何故、自然の内に美を見出すことができるのかということに対して答えることはできない。何故なら、美とは精神的なるものであり、何らかの精神的なるものが自然の中に見出されなければならないからである。
そもそも、美とは、理念の一つの顕れであるという立場に立つならば、自然の内に、理念というべきものが見出されなければならないのである。
故に、デカルトに始まる近代合理主義は、人間の精神性と自然の物質性というものをはっきりと区別するが、人間が自然の内に美を観じるという以上、人間の精神と自然の奥なるものとの間に、何らかの相互作用を認めることが大切であり、その意味で、自然の中に、人間の精神と相互作用する何かを見出さなければならないといえるのである。
故に、自然を単なる物質的なるものと観る見方は、充分でないといえる。あくまでも、自然の奥なるものを観じてゆかなくてはならないのである。
第二節 カント哲学と叡智的直観について
カントは、『判断力批判』の中で、この自然の奥なるものについて、「合目的性」という観点から解釈している。しかし、主観的構成論の認識的立場から、人間の認識に限界を認め、自然の合目的性や美というものは、客観的に存在しているということはいえず、あくまでも、合目的性や美というものがあるかのように判断力によって認識されるにすぎないとされている。
しかし、先程、相互作用の認識論でも述べたように、美という理念の認識が可能なためには、人間の精神の内にも美(理念)が実在し、対象となる自然の内にも美(理念)が実在することが不可欠である。
私は、かかる観点から、自然の奥には美(理念)が実在することを認めたいと思う。この根底にある所の認識論上の立場は、「叡智的直観」である。
カントは、このような「叡智的直観」は、人間の能力には認められないとして限定をかけているが、人間の精神の内なる理念には、かかる高度な知的直観が存在するのであり、古今東西の理念(真善美聖)の把握のされ方をよくよく洞察してみれば、かかる高度な知的直観によるものが多いのである。
人間にこのような認識力を認めなければ、人間の大いなる可能性に限定をかけた哲学体系となってしまうおそれがあると思う。
第三節 シェリング哲学と現象と理念について
このように、人間の精神と自然の内に、理念(絶対者)を叡智的直観によって認識できるとした哲学者にシェリングがいる。シェリングの同一哲学は、人間と自然に同じ絶対者を見出すことによって、人間と自然と絶対者の同一性を基礎づけ、特に、ロマン主義の芸術理念に大きな影響を与えている。
しかし、シェリングの同一哲学も、美の哲学体系としては根本的な欠陥がある。それは、ヘーゲルも指摘しているように、シェリングは、すべてのものを絶対者の顕われとして認識できるとすることによって、質の違いをなくしてしまう所があるからである。シェリングの同一哲学は、新スピノザ主義ともいわれるが、その点において、スピノザの汎神論もまた、同じ誤りを犯しているといえる。
それを一言でいえば、現象と理念を区別していないということである。シェリングもスピノザも、現象そのものを絶対者の顕われと認識してしまう所に誤りがあるのである。
人間にしても自然にしても、その現象はあくまでも仮象であり、理念(美)ではない。現象の奥にこそ、真なる理念(美)があり、そこに、絶対者が実在するのである。
故に、デカルトのいう自然の物質性というのは、自然の現象について述べてあるのであり、シェリングのいう自然の絶対性というのは、自然の理念について述べてあるのであり、この両者を統合することによって、真なる自然観というものができるのである。
第四節 エマソン哲学と理念認識について
近代ロマン主義の芸術的思想家にエマソンがいる。彼は、何よりも自然に美を見出し、高度な精神性を見出している。彼の思想の中においては、自然を絶対者の象徴と把握している。そして、自然の象徴を解読してゆくことによって、自然を通して、絶対者の把握に到ることができると述べられている。
これもまた、自然を自然の現象のまま認識することではない。自然の象徴性を解読するということは、自然の奥なる理念を認識するということである。
エマソンは、まず、人間の奥には、無限なる精神性があるのであると直観した。それは、理念(真善美聖)であり、絶対者そのものである。この人間の内なる理念こそが、自然の象徴を解読し、自然の奥なる理念を洞察することができるのである。
すなわち、人間の奥なる理念美が、自然の奥なる理念美を認識するのであり、人間の内にも自然の内にも、現象を超越した理念美の実在を直観したのである。
このように、自然の奥には理念が実在し、真善美聖のすべてが実在するのである。例えば、真の中にも、哲学的真理や宗教的真理や道徳的真理や科学的真理などがあるが、これらのものが、自然の理念を認識することによって把握されるのである。
故に、自然と共に生きることによって、哲学者にインスピレーションが与えられ、宗教家に啓示が与えられ、芸術家に深い感動が与えられ、科学者にも新しい発見が与えられるのである。このような高度な創造力の源には、自然があるのである。
そして、科学者は、一見、自然の現象を解明しているように見えて、実はそうではないのである。自然界の「法則」を発見するということは、現象の奥にある理念そのもの、絶対者そのものを認識することを本質としているのである。故に、そこに、科学の理念価値が生じてくるのである。
また、芸術家は、一見、自然の現象を映しているようにみえて、実はそうではないのである。例えば、プラトニズムの立場からは、自然はイデアの影であるから、絵や詩などは、影の影を映し、表現する行為であるから、理念価値が少ないように解釈されがちであるが、実はそうではないのである。
芸術家は、現象の奥に美という理念を見出し、それを表現しているのであるから、充分に理念価値があることなのである。
このように、自然の中に美を見出すということそのものが、実は、現象を認識するのではなく、その奥なる理念を認識することに本質があるということなのである。
美という観点に立つならば、現象は本来ないのである。理念のみが実在であり、理念の中のみに、美は住まうのである。
故に、自然の中に美がある以上、そこに何らかの理念を見出しているのであり、自然の奥なる美の一端を見出しているのである。
第五節 理念美の段階性と個性の多様性について
そして、この美にも段階の違いがあるといえるのであり、それは、理念に段階があるのと同じである。本来の理念とは、絶対者そのものであり、真理そのものであるといえるが、同時に、理念にも顕現レベルに差があるということでもあり、その意味で、段階の差を、美そのものの顕現度合いに応じて表現することも可能であり、現実の実態的認識にも即しているものと思われる。
故に、自然の内奥に入ってゆけばゆく程に、自己の精神を深めてゆけばゆく程に、より大いなる美を認識することができるのである。
このように、究極の理念美を頂点として、理念美には段階があり、また、個性の多様性もあるものが自然美の本質であり、人間の奥なる美の本質なのである。
例えば、通常の方が「美しい」と観じた自然の理念美と、ゲーテやエマソンやルソーなどが「美しい」と観じた自然の理念美とは無限の隔たりがあるのであり、それが、境涯の差となっているのである。また、ゲーテもエマソンもルソーも、それぞれ個性を持った自然の理念美を観じており、故に、それぞれの自然に対する理念美の表現にも個性差があるといえるのである。
自然を見ても、現象を現象としか観ずることのできない方もおられるかもしれないが、そうした方にとっては、自然は美の対象にならない。そうした方は、精神の内なる理念美が未だ顕現していないのであるといえる。
精神の内なる理念美が顕現してゆけばゆく程に、いわば、美の境涯が上がれば上がる程に、自然の理念美は、自ずから輝き出すのである。
結論として、自然美については、現象の自然の根底には理念美が実在し、それは、人間の精神の内奥にある理念美の顕現度合いによって認識されるということである。
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(「第六節 芸術美の本質について」へ続く)