天川14 )理念(イデア)を発見する所から本来の真善美聖は生まれてゆく・25号

「理念(イデア)を発見する所から本来の真善美聖は生まれてゆく」

       天川貴之(91、法 卒)

イデアとは、本来、美しいものであり、それは、理性的思惟によって、または直覚によって把握される理念であると私には思われる。或る時、私は、神の存在証明はいかにして可能かということに思いを巡らしつつ、デカルトの「精神指導の規則」をもって、キーシンを聴きに行った。

そこで直覚したものは、美の根源には神が実在するということである。ベートーベンにしても、ショパンにしても、その他のピアノ曲にしても、これ程の美しいものは、神の存在なしにはありえないであろう。叡智界(天上界)の存在なしにはありえないものであろうということである。

技術力以前に天才はあり、本有理性、理念はあるのであるということを、キーシンも、モーツァルトも実証しているのではないだろうか。私は確かに、眼前に神の御手を観ずるのである。そして、私自身が、地上世界にある天上世界、イデアの世界に居ることを実感するのである。しかも、それはまた、デカルトの思考、理性の世界とも一致するものであると思う。

近代哲学には、光があるのである。デカルトの光は、真実の光である。それは、必ずしも、神々から人間を遠ざけてしまうものではない。むしろ、人間を、神の子として、神に近づけてゆくものである。人間の理性は尊いものである。宇宙を貫く法則について探究出来るのは、人間だけである。その智慧をお互いに共有しながら、己が理性を開発してゆくことが出来るのも人間のみである。

ユングが、カントの「純粋理性批判」が物質の脳から生まれたというのはおかしいと十九世紀の唯物論的科学心理学を批判しているが、私もそう思う。「実践理性批判」にしても、叡智界からの理性によってつづられたものでなければならない。それは、魂は不死であり、神は存在するという世界観からつづられたものであり、また、それを実証するものであると思う。

私は、カントやデカルトの書にも神の御手を感じるのである。本当の古典というものは、神の御手によって育まれ、創造されてゆくものではないだろうか。本来の理性が輝けば、人間は神に近づいてゆく。

神は究極の理念でもある。地上にある一切のものは、理念を持っている。理念によって創られている。この理念を一つ一つ発見してゆくことが本来の哲学の営みであり、思想の営みであると思う。真実の美の背後には、不動の理念が実在するものである。

例えば、桜の花の美しさであっても、その背後には、永遠普遍の理念が持続的に存在しており、美をあらしめているように思うのである。薔薇の花の美しさであっても、その背後には、薔薇を薔薇として成らしめている理念があるように思われる。

また、モーツァルトにはモーツァルトの理念があり、ベートーベンにはベートーベンの理念があり、ショパンにはショパンの理念があり、そのそれぞれに、叡智界の美、イデアの美へと通じる道があるように思われる。

その美の観照には、広義の理性の輝きが加えられているように思えるのである。永遠普遍なるものが、そこに真象としてあらわれ、支えているように思われるのである。

私は、カントの「判断力批判」の構想も素晴らしいが、プラトンのイデア論は、さらに根源的であるように思うのである。

真なる哲学は美しいのである。真なる哲理は美しいのである。それは、イデアを認識している所から生ずるものである。故に、本来の哲学的営みは、美しさを持っているものであるのである。

例えば、ショーペンハウアーの芸術論であっても、イデア論が中心である。エマソンの芸術論であっても、イデア論(理念論)が中心である。ショーペンハウアーやエマソンは一種の詩人でもあるが、それ以前に、イデア(理念)を認識するその哲学思想そのものが美しく、その営みの過程に、自然に美が生まれているのであると思われる。

故に、我々は、限りなく精神を高めてゆかなければならない。精神を純化してゆかなければならない。イデア(理念)を真に認識する鏡となる所まで、己が心眼を磨き、精神を磨いてゆかなければならないと思う。

煩悩(盲目的意志)から自由に解脱して、イデア(理念)そのものを、般若の智慧をもって、禅定、精神統一の内に見定めてゆかなければならない。そこに神仏の智慧が顕れてくる。見性体験が生じてくる。そこに、神仏の美が姿を現わすのである。涅槃の境地となって後に、光明荘厳の境地が現れてくる。美そのものが、豊かに眼前に生じてくるのである。

釈尊は、人生はかくも甘美で美しいと述べられたが、それは、真理の美から人生を観られたものであると思う。それだけ、人生の奥深さには美が潜在しているのである。我々は、無限無数の美に生かされているのである。煩悩(盲目的意志)を離れた純粋主観となって、明鏡止水の如き心境になれば、穏やかに無限無数の美が発見される。

人間も、本来、全て美しい。自然も、精神も、本来、全て美しい。それが実相である。実相の眼をもって実相を把握すれば、美の姿が認識されるのである。

理性の光明とでもいうべきものは、理念美を発見する。すべてのものの内にある理念を透徹して観てゆく。すべての現象の奥にある理念を直観する。理念が理念を観るのである。理念が理念を顕わすのである。理念が理念を創造してゆくのである。

観ることは働くことである。「行為的直観」というように、直観されたものは、芸術創造となって、世界に影響力を与えてゆく。故に、観ることは創造することである。観ることは与えることである。観ることは変えることである。そこに現象は無くなり、実相が顕れ、真象が顕現してゆくのである。

理念の眼をもって桜を観、薔薇を観、理念の耳をもってモーツァルトを聴き、ベートーベンを聴き、ショパンを聴き、バッハ、ヘンデルを聴けば、理念(真理)がそこに発見されるはずである。

理念は、さらなる理念を創造してゆき、真理は、さらなる真理を創造してゆく。それが、哲学の営みであり、思想の営みである。理念(真理)の発見が、哲学思想の骨子である。

プラトンに哲学をつづらせたのも理念(イデア)の発見であろう。カントが哲学体系を創造された根源力でさえ、理念(イデア)の発見であろう。ショーペンハウアーも、エマソンも、ルソーも、ユングも、同様の見性体験をしているように思われる。

哲学思想の歴史は、理念(イデア)の発見から始まるのである。それを、地上の認識論や体系の中で、どのように地上の現実に合わせて構成してゆくのかは、それぞれの哲学者によって分かれてゆく。

西田幾多郎であっても、理念(イデア)の見性体験をもとに、「純粋経験論」という認識論がつづられていると思われる。善を中心としながらも、芸術の神来や意義について多数言及されているのは注目に値する。

我々の魂はどこまでも飛翔してゆかなければならない。飛翔した魂が、側にある現象世界の内に、理念世界(イデア世界)を発見し、真善美聖を発見し、創造するものでなければならない。

(天川貴之:哲学者、JDR総合研究所代表)

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