天川10)「哲学的愛」~ギリシア精神について(2)・・22号

  「哲学的愛」~ギリシア精神について~(2)

                                                     天川貴之(H3、法・法律 卒)

第四節 理念美への愛

さて、理念美への愛について、述べてゆきたいと思います。永遠なるものを求め出した魂は、永遠不滅なる理念への愛に目覚め始めます。しかし、理念へと飛翔していくということは、至難の業であります。

本当の意味で理念界に参入し、理念そのものを観じえた人は、この世のすべての美が色褪せてしまうのであります。それほどに、理念の世界は、光輝に満ち、輝かんばかりに美しいのであり、至上の美しさは、地上にはなく、天上にあるといえるのであります。

この理念とは、光であり、善でありながら、美であるような実在であります。しかし、その実質は、叡知(ヌース)であるといっても過言ではありません。故に、かかる世界のことを叡知界と呼ぶのであります。

かかる世界の叡知は、地上の知識とは、まるで異なっているものであります。叡知そのものが、「一即多」の生命体であり、「部分即全体」の生命体であり、部分、部分から、すべてに至るまでを覆っているのであります。

これは、プラトンやプロティノスなどの哲学にも出てくる概念でありますが、同時に、カント哲学にも出てくる概念であります。カントは、「純粋理性批判」の中で、彼岸(天上)の世界に対する認識に対しては戒めておられますが、一方で、「実践理性批判」の中では、叡知界の存在を前提にして、この叡知界から高次なる道徳律が導かれるとされています。このように、叡知界は、古代から近代に至るまで、そして、現代においても、未来においても実在するのであります。

地上の感性界というものは、かかる叡知界の写し絵であって、影のような存在であり、肉体もその一部であるといえましょう。そして、魂もまた、この叡知界から流れ出してきた所の低次の存在にしかすぎないのであります。

故に、叡知界から見れば、肉体美も、精神美さえも、不完全で色褪せてしまうのであります。一度、叡知界に飛翔してしまうと、実に、この世のすべてのすべては無常であり、夢幻であることがわかります。そして、目に見えぬ叡知界こそが実在であり、本当にあるものである、ということが分かります。

この叡知界においては、エロスの対象も、一人や数人に縛られることなく、すべてへと、普遍的になっていきます。そこに、あらゆる執着と限定を去った自由自在な境地が現れてきます。

すなわち、叡知界に達すると、魂の翼は、他の段階の愛とは見違えるほどに大きくなっており、自由自在に、天空を飛翔するのであります。

これに比べると、一人や数人の愛に縛られていた頃は、まるで、鎖につながれた犬のような状態に見えるわけであります。

すなわち、魂の性質は、限定を加えてゆくに従って不自由になり、幸福感覚が落ち、限定が外れるに従って自由になり、幸福になってゆくことが分かるのであります。

そして、叡知界での幸福感は、至上の幸福感であって、地上のありとしあらゆる幸福に優ることが分かります。そして、その幸福は、限りなく永遠なる幸福感なのであります。

その上、また、常にあるものであり、生ずることもなく、滅することもなく、また、増することもなく、減ることもなく、一方から見れば美しく、他方から見れば醜いということもなく、時として美しく、時として醜いということもなく、また、これと比べれば美しく、かれと比べれば醜いというものもなく、ある者にとっては美しく見え、ある者にとっては醜く見えるということもなく、絶対的にあり、絶対的に美しい存在、実在であるのであります。

このように、美の最高段階は、天上の叡知であり、エロスの向かうべき永遠の対象もまた、叡知の美、すなわち、理念の美なのであります。

この叡知界の美の不生不滅、不垢不浄、不増不減の性質は、「般若心経」の「真空妙有」の解釈の奥義である所の「空相」と全く同じであります。観自在菩薩が般若の智慧でもって叡知界を垣間見られた姿は、「般若心経」の奥にある悟りであるといえるのであります。

このように、古今を問わず、東西を問わず、真理は一つであり、普遍的に叡知界は存在するといえるのであります。結論として、理念、すなわち、叡知は最高の美であり、かかるものを愛するエロスこそが、最高のエロスであるといえましょう。

第五節 理念と一体となる

さて、理念と一体となるということについて述べてゆきたいと思います。理念界、叡知界に参入しようと思えば、まず、自らの内に、理念、叡知を、磨き出さなければなりません。叡知界と一体となるということは、自らもその世界の一部となるということだからであり、認識論からいっても、叡知ある者のみが、同じ叡知を認識できるといえるのであります。

感性界は、五官で把握できる世界でありますけれども、叡知界は、知性によって把握できる世界であるのであります。すなわち、知性的、理性的に思索を重ね、思索によって得られる叡知でもって、叡知界を観ることができるのであります。故に、何よりも、叡知界と一体となるためには、思索力を磨いてゆかなければならないといえるでしょう。

かつて、デカルトは、万人の内に理性の力が、純粋なる理性が内在されていると云われました。そして、正しき導き方をすれば、その理性の力を活性化させることが出来るのであると説かれました。そのように、万人の内に備わっている理性は、磨けば磨くほどに、それは活性化してくるのであり、叡知界を観る一つの目となってゆくのであります。

一方、カントは、「純粋理性批判」の中で、理性の力によっては、叡知界は認識できないとされていますが、これは、哲学にとって、大きな自己限定であり、ある意味で、プラトンやプロティノスの哲学の基礎となる認識論を否定してしまうことになっております。これは、近代の呪縛の一つであるといえましょう。

我々は、これを解き放って、叡知界は、理性的思索の力によって認識できるものであるという哲学を、さらに洗練された形で打ち立てなければならないでありましょう。

ただし、カントの哲学の中で、かつて、ソフィスト達の認識の相対性に対して、プラトンが、先天的悟性的認識の大切さを訴えて反駁されたように、同じく近代においても、ヒュームなどの認識の相対性に対して、カントは、先天的悟性認識論を立てることによって、それを、反駁したという、そうした認識論の前提となる前半部の認識論については、功績を認めるべきでありましょう。

その他に、叡知界と一体となるためには、古典的な哲学書、特に、如来の哲学書を、よく読んでいくことであります。如来とは、仏教では、真如、真理の世界から来たものという意味であります。これを、哲学的にいうと、叡知界から来たった者ということがいえましょう。

故に、如来の哲学者が、叡知界を想起され、叡知界と一体となって著述された書物は、文字で書かれた叡知であるといえるのであります。故に、かかる叡知的書物に、よくよく親しんでいると、内なる叡知が共鳴して、活性化してくるのであります。

そしてまた、己が魂の情念をよくよく浄化しておかなければいけません。なぜなら、叡知界とは、もはや、あらゆる情念を滅尽した平安なる世界であるからであり、かかる世界に跳入しようと思えば、自己の肉体から派生する情念を、限りなく、反省、その他の方法によって、統御し、滅尽しておかなければならないからであります。

そして、限りなく肉体我から離れ、魂をも離れ、知性そのもの、叡知そのものの実体にならなければならないのであります。自己の肉体はない、心もない、思考せるエネルギーのみ実在、美しき叡知のみ実在と言い切れた時に、叡知界に参入できるのであります。

ところで、理念と一体となることで、理念の子供を産み落としてゆくということについても述べておきましょう。この理念とは、神とも呼んでよいものであります。

真なる創造作品とは神懸り的なものであり、神的インスピレーションが少なくとも及んでいるものであります。現代においては、そうしたものを認めない傾向にありますが、宗教のみならず、本当の芸術、本当の哲学というものは、すべて、多かれ少なかれ、神からの啓示によって創られたものであるのです。

故に、哲学者や宗教家や芸術家は、神、すなわち理念を伴侶とし、理念と一体となることによって、真なる創造を行ってゆくといえるのであります。

哲学者や、芸術家や、宗教家などが、歴史上においても、独身であることが多いのは、彼らが、神、理念を伴侶とし、理念の子供である創造物を、真の子供とするからであります。

通常の人間の一生の一大事は、結婚と出産でありましょうが、哲学者にとっての一大事とは、何よりも叡知と一体となることであり、叡知の子供を産むことであるのであります。以上が、理念と一体となるという話であります。

第六節 哲学的愛とは

さて、最後に、哲学的愛とは何かということについて、述べてゆきたいと思います。哲学的愛とは、エロスのことであり、エロスが究極に目指すものは、理念、叡知であり、叡知の美であります。ここにこそ、エロスによって導かれる哲学的悟りがあるといえるのであります。

それまでに、様々な段階があり、様々な美を探求しながら、究極の美にたどり着くところに、人生修行の醍醐味があるといえるのでありましょう。そして、叡知界と一体となることが出来ることこそが、究極の人生の目標であるといえましょう。

しかし、叡知界と一体となったが故に、すべきことがあります。それは、この地上界を、叡知界の如く変革してゆくということであります。地上に、理念の国を築いてゆくということであります。

そのためにこそ叡知を用いなければなりません。自らが獲得できた限りの叡知を、世の中に伝えなくてはなりません。そこに、哲学的愛、エロスの積極的展開があり、哲学者の使命の積極的展開があるといえるのであります。

そのためには、まず、自らが叡知界と一体となったならば、数多くの人々を順序正しく導き、内なる理念、内なる叡知を目覚めさせてさしあげなければいけません。

真なる哲学者は、叡知と一体であるが故に、真なる教育者とならなければならないのであります。さらには、ユートピア思想、哲学を世に問うて、それを実現していくための哲学的志士達を、数多く育ててゆかなければならないといえるのであります。

まず、現代の地上で横行しているエロスは、堕落したエロティシズムばかりで、これを、本来の姿に戻さなければなりません。これを、エロスの革命といってもいいでしょう。

エロスの革命とは、さらには、「理念の革命」であります。現代社会は、各分野において、理念が欠如しているので、あらゆる分野に、理念を掲げ、実現してゆかなければなりません。

現代社会は非常なる知識社会でありますが、それを支える知識が、浅い知識ばかりなのであります。これを天上の叡知に変えてゆかなければなりません。

特に、今の若者は、最も大志を抱くべき時に、叡知の書、すなわち、哲学書を繙こうとはしません。これは、どれだけ今の文化文明が叡知界から遠く離れ、唯物的になっているかということがわかります。

唯物的ということと、理念的ということは、対極にある思想であります。現代思想は、科学や医学、そして経済学から政治学に至るまで、さらには、哲学に至るまで、「唯物的~学」となっているのであります。

これを、「理念の革命」を成して、すべて、「理念~学」に成し、「理念学術体系」を築き、「三界は唯心の所現」と云われる如く、思想は社会を変えていくものであるので、理念思想を以って社会を変革し、ユートピア社会を建設してゆく時代が到来しているといえるのであります。

叡知界、理念界と一体となった哲学者は、最高に、哲学的愛を全人類に向けて放たなければならないのであります。そして、全人類を救い、そこに理念の王国を打ち立てなければならないのであります。

(天川貴之:JDR総合研究所代表・哲学者)

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*参考資料(諭吉倶楽部会報第21号掲載文)

        「哲学的愛」~ギリシア精神について~(1)

                                                     天川貴之(H3、法・法律 卒)

第一節 エロス(愛)について

哲学的愛とは何か、ということについて、述べてまいりたいと思います。まず、初めに、エロスについて、述べていきたいと思います。

キリスト教的なアガペーの愛に対しまして、この哲学的な愛においては、ギリシャ哲学的なエロスの愛ということを中心に述べていくことになります。

ギリシャで、愛というと、この「エロス」というものが当たる訳です。アガペーというものは、神よりの愛であり、上から下へと向かっていくニュアンスがありますけれども、エロスとは、理念への愛というものであり、下から上へと向かっていくニュアンスがあります。

アガペーの特徴としては、自己犠牲的な愛であって、多少、悲壮感が漂っているような雰囲気がありますが、エロスというものは、自己肯定的で、明るく、のびやかで、非常にロマンティックな面もある愛であると言えるでしょう。

このエロスの愛の中にこそ、地球精神の一柱たるギリシャ精神の真骨頂は述べられているといえましょう。ギリシャ神話を読んでみますと、このエロスというものは、神霊、ダイモンであり、美の女神アフロディーテが生まれられた時に、術策の神ポロスと窮乏の女神ペニヤとの間に生まれた子供であるとされていますが、これは、比喩の物語としてのみ受け止めればよいと思います。

実際に、エロスが働き出す時、美を追い求め、自らの心は貧しく、美を獲得するために様々な術策を考えるようになるのですから、この物語も、的を射ているといえるでしょう。

また、エロスは、美と醜さ、知と無知の中間にあり、美や知の理念を追い求め続ける存在であるとされています。これは、哲学者の姿そのものであり、また、それ以前に、人間の姿そのものでもあるといえましょう。

このエロスの愛を述べていく時に、様々な具体的な情景というものが思い浮かんでまいりますが、人は、誰かを愛している時、エロスという神霊、ダイモンの神懸り状態にあるといってもよいでしょう。非常に霊的に覚醒した状態になるのであります。

これは、神懸りであるが故に、「神的狂気」と呼ばれるものであります。狂気そのものは、正気より劣っているといえますけれども、神的狂気は、正気よりも素晴らしいということがいえます。

このエロスの神的狂気によって、日常性の正気を離れ、限りなく神秘的な美そのものを追い求め、また、自らも体現することが出来るのであります。

このエロスとは、自己の内なる良心と同じく、各自に宿る神的感情、エロスの神霊といえるかもしれません。エロスが発露する時、愛する相手を理想化し、神近きものとして認識させます。そして、相手の徳の光を見て、真、善、美の追求へと向かわせるのです。

すなわち、エロスの力によって、人は神的狂気の状態になり、哲学者となり、モラリストとなり、芸術家となってゆくきっかけが与えられるのは、人生の偉大なる真実でありましょう。

多くの方は、思春期において、恋愛をきっかけにして、例えば、音楽や、詩を作ったり、哲学的に愛とは何かを考えたり、また、善とは何かを考えたりされるようになることが多いと思います。これもエロスの働きであるといえるのです。

こうしたものは、決して日常の中では考えることが出来ないものでありますから、いったん神的狂気の状態になり、非日常的な、神秘的な状態になって、そして考え始めるという、魂の目覚めが必要なのであります。

また、相手を理想化することによって、相手の内なる理念を拝み出し、天上の徳を想起することが出来ます。これこそが、高貴な愛といわれるものであります。

恋愛には様々なものがありますけれども、相手の理念を愛する、そして、それで以って天上の徳を憶い出し、天上世界へと自らの魂が飛翔していく、これが、最も高貴な愛の形、高貴な恋愛の形であるといえましょう。

霊的に観れば、エロスの力によって、魂に天上世界、理想世界へと飛翔する翼が生えてくるのであって、魂は、エロスによって、天使の翼を身に付け、神へと、理念へと向かってゆくといってもよいのであります。

また、一口にエロスといっても段階があるのであり、また、美としての対象に段階があるものであります。美というものの中にも様々な美がありますが、例えば、大自然の中にも美があり、それは、神が理念界に似せて創られたものである点において美が認められるし、職業生活の中においても、それが人間の活動であるが故に美が認められるし、学問の中においても、その源に理念があり、そこから派生したものであるが故に美が認められるのであります。

このように、様々な美というものがあり、様々な多様性と段階を秘めているものでありますが、これから考察していくものとして、エロスの対象を、肉体美へのエロス、精神美へのエロス、理念美へのエロスの三段階に分けて、以下において、考察していきたいと思います。

第二節 肉体美への愛

さて、それでは、肉体美への愛ということについて、述べてゆきたいと思います。人間として生まれて、万人が一度は、肉体美への愛を持つ経験を致します。その意味で、第一段階のエロスの対象は、非常に、普遍的であるといえるでしょう。

なぜなら、他の、善とか正義とかというものは、目には見えないものであるが故に、なかなか、誰もが認識出来るとは限りませんが、肉体美は、目に見えるものであるが故に、万人が、認識出来るものといえるからであります。

肉体美というと、非常にギリシャ的であるといえます。ギリシャ彫刻で、数多くの裸体像が残っていたりするのは、ギリシャの文化の中に、肉体美の中にも神的な美を認め、心のみならず、身体においても、美の完成を追求しようとする精神があったからであります。

一方、日本文化は、すべての面において、恥の文化、隠すことによって美を発見する文化といわれているように、肉体美を追求する文化風土は、あまりないといえましょう。

故に、容貌や雰囲気を愛し、あからさまに肉体美を追求することはないでありましょうが、誰もが普遍的に経験する恋愛の根底にあるものは、この肉体美であるといえるのであります。

健全な肉体に対する健全な愛というものは、低次なものであるけれども、エロスの愛の第一段階の通過点としては、大切なものでもあります。

しかし、人間は、肉体美を追求していく上で、肉体に満足出来なくなって、さらなる美を求める必然性を持っているといえます。なぜなら、人間の本質は魂であり、魂の永続性に比べて、肉体の形式は、あまりにも無常であり、刹那的であるからであります。

肉体そのものも、若き時をピークとして衰え、醜くなっていくし、そもそも、肉体への愛の多くが肉体の本能に根ざしているが故に、本能が満たされると醒めてしまうことが多いように、移り変わり、変転していくことを本質としているからであります。

肉体が不安定なものであるが如く、肉体に基づく肉体美も不安定なものであるのであります。結局のところ、肉体美も、一時の夢幻の如き美なのでありまして、あくまでも、次なる美へのステップにしかすぎないのであります。

自分が肉体であるという自覚を持っていれば、肉体美が、始めにして終わりになってしまいますが、自分が魂であるという自覚を持っていればいるほどに、肉体美が色褪せて見えてくるのであります。

そして、魂の自覚が高まるにつれて、自然に、自分よりも下次元で不安定な存在である肉体美に執われなくなってしまうのであります。

この魂の自覚がないままに肉体美に執着しすぎますと、それは、エロスの堕落となり、エロスの本来の方向性を止めてしまっているといえるのであります。

たとえ肉体美から出発したとしても、さらなる高次の美を求めて、探求し、探求し、探求し続けてゆくことこそ、エロスの本質なのであります。

魂の自覚とは、自己の精神性の自覚であります。精神性に目覚めた魂は、エロスとして、精神の美を求めるようになっていきます。すなわち、肉体的には醜くとも、精神において美しければ、それを愛するようになってくるのであります。

第三節 精神美への愛

さて、精神美への愛について、述べてゆきたいと思います。主として、人間は精神であります。故に、人間らしさとは、精神性を開発出来ているか否かであるといえるのであります。

そして、精神に対する愛は、最も人間らしい愛の形であり、そこにヒューマニズムの原点があるといえましょう。プラトニック・ラブというものも、主として、プラトンの恋愛観のうち、精神に対する愛の段階を言っているといえましょう。

本来ならば、次なる理念に対する恋愛観が中心なのでありますけれども、世間では、誤解されて伝わっているわけです。ただ、プラトンの中には、そうした精神の愛の段階もあるように思います。

この精神美は、磨けば磨くほど輝くものであって、それは、肉体美の比ではないものであります。もちろん、肉体美も、磨けば磨くほどに美しきものとなっていくのでしょうが、やはり、美しさに限界があります。

しかし、精神は、万人が、磨けば磨くほどに、無限に素晴らしい輝きを見せるものであります。特に、徳性で、例えば、節制の徳であるとか、勇気の徳であるとか、思慮の徳であるとか、公正の徳であるとか、こうした市民的な徳を磨き、輝かしている魂は、非常に、美しいといえるのであります。

このように、徳の姿の中に美を見出していく精神こそ、哲学精神の第一歩であるといえるでしょう。しかし、この徳の美しさは、同じく徳の美しさを身に付けた者のみに観えるものであって、精神的に光輝く者が精神的に光輝く者を観ることが出来るというのが精神界の法則なのであります。

故に、人々の徳の美しさに気づくということは、自分自身の内に徳の美しさがあるということであり、人々の徳の美しさを観ようと思えば、自分自身の徳も磨かなければならないのであります。

こうした精神美への愛の幸福感は、肉体への愛に比べて非常に高いものであります。また、永く続くものであります。

こうした精神美にも、その中に、段階があるのであり、精神性の発揮の仕方において、段階があるといえるでありましょう。精神の属性の中にも、先ほど挙げた徳以外にも、愛や知や善などの、様々なものがありますが、それぞれに段階があるのであります。

精神への愛において、特に注意しておかなくてはならないことは、それが精神的な執着となり、精神的な渇愛となった場合においては、苦しみの愛となり、苦しみの原因ともなるものでありますから、これは、最も低次の愛として、こうした時には、そこから離脱することが求められるといえましょう。ここに、エロスの危険な面もあるわけです。

恋愛小説の多くの葛藤の部分は、肉体の愛の葛藤というよりは、精神的な愛の葛藤を描いているものであって、この段階における愛というものの中にも、時には幸福になり、時には苦しみになるような不安定な要素があるのです。それが本物の美ではないが故に、時には幸福をもたらし、時には不幸をもたらすのであります。

この精神というものは、言い換えれば、心でもあります。確かに、この心は、肉体よりも永続的でありますけれども、よくよく振り返ってみれば、これもまた、変転してゆくものであるといえましょう。

恋愛現象を見ても、永遠の愛を誓ったものの大半が、その愛を、無常なものにしてしまうといえますが、これは、ある意味で、心の性質上、仕方がないことでもあるともいえるのであります。

恋人同士でもそうでありますし、夫婦同士であったとしても、当初は、永遠の愛を誓ったとしても、それが本質的には忘れられてゆき、形だけが残っているというものが多いのではないかと思います。

従って、永遠というものが理念にしかない以上、永遠の愛を心や精神に求めても、それは適えられないといえるのであります。

精神美への愛というものは、魂の本能に基づいているが故に、その本能は長く続くし、なかなか醒めないものであります。しかし、心もまた、理念でないが故に、移り変わりゆくこと、無常からは逃れられないのであります。

しかし、精神的な魂は、永遠なる愛を求め、求めてやまないのであります。そこに、人間が本来宿している所の、内在する理念の実在の証があるといえましょう。

そして、精神的な愛においても、永遠で完全なる愛が成就しないが故に、完全なる幸福の愛が成就しないが故に、精神的な魂は、この段階で数多くの葛藤を経験するようになります。

肉体愛に飽き、精神の愛に葛藤を覚えるようになった魂は、精神より内奥にある所の理念への愛を求め、ある意味で、理念は神であるから、神を求めるエロスを働かせるようになっていくのであります。

(第4節へ続く)

(天川貴之:JDR総合研究所代表・哲学者)

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