奥村17)私の好きな諭吉の文章17・・・39号
「私の好きな諭吉の文章」(17)
奥村一彦(80年経済卒)
福澤諭吉から森鴎外にちょっと寄り道
1 前回から今日まで、日清戦争のことを調べるために『日清戦争』(藤村道生著)と『日本の産業革命』(石井寬治著)を読んでおりました。福澤が泣いて喜ぶ日清戦争の勝利について、その原因や勝利後の日本社会への影響などをよくしりたかったからです。詳しいことはここでは展開できませんが、清国から三国干渉で返還した遼東半島の補償分を併せると3億6000万テールという金額で、当時の日本の年間予算額の3~4倍くらいとなるそうです(当時の年間予算は8000万円ほどです)。インターネットで現在価値への換算についてたくさん試算がされていますので、参考にしてください。7回に分割して支払うという条件付きですが、問題はこれがもたらした日本社会への深刻な影響です。一言で言うと、賠償金の大半が膨大な軍事費に投入され(85%ほどが軍事関係に回された)、経済が軍需産業を中心とする軍事的経済社会へ歩み始めたということです。帝国主義列強の仲間入りは本格的には日露戦争後ですが、陸軍、海軍の影響力が大きくなり、戦争勝利の歓喜が国民をして軍国主義の風潮になじませるようになります。大規模な産業投資も行われ(八幡製鉄所建設。戦争で中国の鉄鉱石を独占輸入。金本位制の導入など。)、京都帝国大学などの教育投資も行われました。
私はこれまで、わが国の軍国主義的風潮が強まるのは日露戦争がもたらしたものと考えていましたが、日清戦争の結果がその土台を作ったものと理解しました。日清戦争は、今では戦争の経過も含めて研究がなされており、「このさい如何にもして日清の間に一衝突を促すの得策」(『蹇蹇録』陸奥宗光著)という陰謀めいた画策からはじまり、当時の中国の朝鮮への属国視との対抗という問題はありはしたものの、清国との戦争勝利はわが国の健全な経済社会の発展(健全というのは、民生を重んじたり、民主主義的討論を重視する社会的仕組みの構築のことです。)を歪める結果をもたらしたのではないかと強く思った次第です。
2 ところで、日清戦争を調べていく内に、福澤諭吉が戦争勝利に喜んだことは知っていましたが、福澤諭吉と同時代に生き、そして日清戦争には軍医として従軍した森鴎外(1862年~1922年)が視野に入ってきました。諭吉と鴎外は表だった交錯はしていないのですが、明治時代の二大巨頭が(いや今でも二大巨頭です)どのようにこの時代を駆けていったのだろうかと思い、鴎外の著作を読みふけったというのが、今の私の現状です。
3 鴎外の著作については、私は、中学時代の国語教科書で『山椒大夫』、高校時代のそれで『舞姫』から入り、その後は折に触れ読書はしていましたが、この年になり改めて読み直すと、巨人が眼前に立ちはだかっていることを痛感しました。諭吉の場合もそうですが、疾風怒濤の時代というのはかくも偉大な天才を生み出すものかなと、つくづく歴史の偶然と必然の関係を考えずにはいられませんでした。ただし、お断りしたいのは、鴎外を論じるには三史伝を読んでいないといけませんが、残念ながら私は『渋江抽斎』は2回読みですが、『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』は途中読みで頓挫しています。ですので、その他の小説と膨大な評論の一部を読んでの感想に過ぎないことをお断りしておきます。
4 さて、諭吉と鴎外が奇しくもというか、時代の先覚者として当然かも知れませんが、西欧から何を学ぶべきかという点で完全に一致していることです。
諭吉は「文明の外形はこれを取るに易く、其の精神はこれを求むるに難し」(『文明論の概略』第2章)と言い、これを獲得するには「人生の天然に従ひ、害を除き故障を去り、自から人民一般の智徳を発生せしめ、自から其意見を高尚の域に進ましむるに在るのみ」と言いました。
鴎外は、左遷先の小倉から東京に戻る際に講演を頼まれた際に、軍人を前にして行った講演『洋学の盛衰を論ず』(1902年3月15日)で、鴎外の師であったベルツがお雇い外国人の任を解かれたときに行った演説を引用し「日本は従来洋学の果実を輸入したり。・・然れども学問当体に至りては、西洋人の西洋の雰囲気中に於いて養い得たる所にして、西洋の此の雰囲気あるは一朝一夕の事に非ず。」と言い、鴎外自身も「我の学問の果実を輸入して自ら得たりと為すを箴め、学問の生物たり、得意の雰囲気を得て始めて成長するを説ける歯、最も翫味に堪へたる者の如し。」と言いました。
この講演は明治35年ですから、諭吉が明治8年に『文明論の概略』を上梓してから27年後にもなって、鴎外は、未だ果実ばかりを輸入して、果実を生み出すその精神を獲得していない現状を憂いたのです。
ちなみに明治の東京大学(京都帝国大学が出来た後は東京帝国大学に改称)では、当初ドイツ人がドイツ語でドイツの教科書を使って講義をし、その後、日本人が日本語とドイツ語でドイツの教科書を使って講義し、最後は、日本人が日本語で、日本語で書かれた教科書を使い講義をしたそうです。ベルツが明治34年に教師職を解かれたのは、そのころには、日本人の教員が大勢外国留学から帰り、それなりに育ったので、お雇い外国人たちは解職されたのです。お雇い外国人の給与は現在価値に換算して月額1000万円程度であったという統計もあり、相当な経済的負担ではあったようです。
また、陸軍は語学を重視しており、日本のドイツ語教育に偉大なる足跡を残した関口存男の思い出話では、今の大阪城内にあった陸軍練兵場に幼年学校(中学校に該当)で入学すると、ドイツ語かフランス語のクラスに分けられ、上級に進むと英語を勉強したとあります。陸軍から戦後、ドイツ語やフランス語の先生、文学者を生んだことはよく知られています。英語は海軍からでしょうか。
5 鴎外の小説、評論には、頻繁にフランス語、ドイツ語の言語が引用されています。それだけではなく漢語の知識も相当なもので、鴎外を読むときにはフランス語の辞書、ドイツ語の辞書と漢和辞典及び国語辞典を座右に侍らせて読まないと正確には意味は読み取れません。それが鴎外が遠ざけられている理由のひとつでしょう。ただ、現在は岩波書店から代表的な近代小説と歴史小説(漢詩も含む)は、詳細な注釈が附せられた著作集が発行されておりますので、時間をかけないで読む人には必須のものです。それでもまだ私には調べ尽くせない漢語があるのです。
ここ数ヶ月、鴎外を読み直して心に沁みた小説は、「半日」(妻との確執)、「鶏」(小倉時代の鴎外の軍人生活小説)、「金比羅」(長女マリーと弟フリツの百日咳の病状とフリツの死を書いた事実小説)、「ヴィータセクスアリス」(鴎外の性的経験)、「電車の窓」(偶然電車の前に座った女性との心の中の会話)、「普請中」(ドイツから来た女性と別れ)、「本家分家」(鴎外の弟の死後の遺産問題)、「沈黙の塔」(大逆事件への怒り)、です。
評論はどれも重いのですが、「フアスチエス」(表現の自由を保護する意図で書かれた会話)、「なかじきり」(鴎外の回顧談)、「礼儀小言」(礼儀一般から鴎外自らの葬送を予感させる逸品)、です。
(弁護士:京都第一法律事務所)