山根15)福澤諭吉と勝海舟・・・17号
福澤諭吉と勝海舟
山根 昭郎 (1975 法卒)
現在放映中のNHK朝のテレビ小説「あさが来た」では、主人公の女性が上京したときに、福澤諭吉先生に偶々出会い、啓発されるというエピソードが挿入されていた。もちろん、フィクションであるが。さらに、ドラマでは、史実としての北海道開拓使官有物払い下げ事件が物語の展開における重要な出来事として扱われていた。
この官有物払い下げのスキャンダルに端を発して起こったのが「明治十四年の政変」である。この政変により、大蔵卿であった大隈重信は政敵によって失脚させられた。また福澤諭吉やその門下生たちにも少なからぬ影響を与えた。以前、これを題材として小論をしたため、本欄に載せたことがある。
さて、明治の啓蒙思想家として一躍名を成した諭吉であったが、この政変を機に政治に関わる表舞台からあえて背を向けた感がある。そこには、清濁併せ呑み、時にはあえて火の粉を浴びることすら余儀なくされる現実の政界とは一線を画すとともに、政治思想家としてはある種、挫折の苦渋を呑まざるを得なかった側面があったのかも知れない。
「痩我慢(やせがまん)の説」は、その後の、明治二十四年に書かれ、明治三十四年に発表された諭吉の論文である。そこからは、諭吉の政治に対する考え方、ひいては国家観の一端が窺える。諭吉の主張は概略こうであった。
・日本の武士社会固有の士風を維持するのは痩我慢によってである。
・痩我慢は立国においてなによりも重要なものである。
・維新のときに幕府が勝負を試みることなく官軍に屈したのは痩我慢の精神に悖る行為だ。
・勝海舟は元々幕府の枢要にいながら、新政府の高官になるとは何事か。
特に、勝海舟に対しては上記の如く、手厳しい攻撃ともいえる論評を行っている。そして諭吉は明治二十五年、勝海舟に対し、この論文を後日発表するつもりだが間違いがあってはいけないので意見があれば言って欲しいと手紙で伝えている。これに対する勝の回答はこうであった。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。」
つまり、やったことは自分の責任である。それについて、あれこれ評価するのは他人が言うことで、自分に関係がないので好きにしたらよろしい、というものであった。
勝は、また著名な「氷川清話」でこう語っている。
「福澤がこの頃、痩我慢の説というのを書いて、おれや榎本(武揚)など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで「批評は人の自由、行蔵は我に存す」云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。福澤は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり「徳川幕府あるを知って日本あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし。唯百年の日本を憂うるの士は、まさにかくの如くならざるべからず」サ。」
つまり、福澤はあくまで学者だ、自分の志す道と違う、徳川幕府だけを見て、(それを包含する)国というものを見ていない人間と、百年先の日本を心配して講和を図った自分とは考え方が違うと言っている。福澤は論争を挑もうとしたが、勝は同じ土俵には立つつもりはなかった。
ここで、どちらが正しい、間違っていると論考するつもりはない。ただし、福澤の主張には、あくまで武士の美学が貫かれている。そこには一本の筋がある。一方、勝は目の前に、胎動する新たな歴史に立ち向かい、ともすれば汚いと言われることもある、政治の力をもって無血での革命が成就する道を選び、実行した。
ひとつ言えることがあるとすれば、江戸から明治への大転換は、国家の進退をかけた一大事業であった。歴史に、「もしも」はないが、仮に国内が大混乱のままでまとまらなかったならば、つまり内戦状態が長く続き、国も民も疲弊し尽くしたりすれば、日本というちっぽけな国は、列強の餌食にされていたかも知れない。
明治維新後の日本の躍進はまさに目覚しいものがあった。福澤も、勝も、それぞれの世界で一家言を持ち、何事かを成し遂げ、多くの人に影響を与え、日本の歴史にその名を刻んでいる。歴史は無言でいて、まことに雄弁である。
(了)
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〔事務局より〕 *参考資料:会報7号(2013,6)、8号(2013,10)掲載文
明治十四年の政変と福澤諭吉(1)
山根 昭郎 (1975 法卒)
6月初旬にロンドンに旅行する機会を得た。ロンドン再訪は十年ぶりのことである。
旅に先立ち、英国の歴史、文化などについておさらいした。旅をより充実させたいとの思いで、訪問を予定する宮殿や観賞する絵画の歴史的背景を予習したものである。
ところが思わぬことに、その予習と実地見学が、本年1月19日に受講した福澤研究を振り返り、さらに興味を深めることに大いに役立つことになった。物事はどう展開するかわからないものである。幾つになっても学習すべきとの思いを新たにした。
さて、まず英国で立憲君主制がいかに確立されたかを大雑把におさらいしてみる。そして、明治十四年の政変との関連性を考察してみたい。
◆イギリスの立憲君主制の確立(権威と権力の分離がいかにしてなされたか)
・16世紀後半、イングランドはエリザベス女王の統治下で大いに国力を伸長したが、女王に後継者がいなかったため縁戚のスコットランド国王を新国王に迎え入れた。
・ところがカトリック教徒であった新国王側は、新教徒(イングランド国教会や清教徒)に宗教的圧迫を加えたので、国王と議会が衝突し、清教徒であるO.クロムウェル率いる鉄騎兵が勇戦した議会側が勝利を収めた(清教徒革命)。
・O.クロムウェルは国内の混乱を武力収拾すると、国王を処刑し、共和政を樹立した。
・後を継いだR.クロムウェルは政治的に無能であったために、貴族など有力者は、大陸に亡命政権を立てていた王室に帰還を求めた(王政復古(1660))。
・しかしカトリック教徒の国王側が、宗教政策で再度国民を圧迫したため、議会のトーリー、ホイッグ両党(二大政党の源流)が連名で、オランダに嫁いでいた新教徒のメアリー王女と夫のオレンジ公オランダ総督ウィリアムに『権利章典』の承認と引き換えに王位を差し出して、旧教徒の国王一家を追放した(名誉革命)。
・その後、メアリー女王の妹であるアン女王が即位した時期に、王位継承者を新教徒に限定する『王位継承法』が定められ、その規定に従って、アン女王没後に、ドイツから新教徒のハノーバー公が王位に迎え入れられた。(なおアン女王の時代に、イングランドとスコットランドが統一して連合王国【United Kingdom】が誕生。)
・ドイツ生まれの新国王ジョージ1世は、英語が話せず閣議を主催できなかったために、ホイッグ党の指導者であったウォルポールがこれを代行し、議会の有力党の党首が国政を執る責任内閣制が生まれた。
・こうして、イギリスにおいて「国王は君臨すれども統治せず」という政治原則、つまり、①権威(Authority)を体現する国王と、②権力(Power)を保持する議会という「権威と権力の分離」が確立された。
・国王と議会は、ともに『マグナ・カルタ』『権利請願』『権利章典』『王位継承法』などの成文法典や慣習化された不文律を含む国憲(constitution)を遵守し、国王のみならず、議会もまた「絶対無制限の権力」を行使することは許されないこととなった。
◆一方、明治十四年の政変について
『明治十四年の政変』とは、次のような政治事件である。
「1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。1881年政変ともいう。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。」(Wikipediaより)
それでは、福澤諭吉や門下生が目指した政治体制はいかなるものだったのであろうか。
福澤が興した交詢社が起草した私擬憲法(密かに憲法に似せたもの)によれば次の特徴が読みとれる。
1.「天皇ハ聖神ニシテ犯ス可ラザルモノトス。政務ノ責ハ宰相[大臣]之ニ当ル」の後段により、政務の責任は宰相(大臣)が負うとしたこと
2.天皇は立法権、統帥権、外交権を持つが、「天皇ハ内閣宰相ヲ置キ万機ノ政ヲ信任ス」と、内閣宰相が実際の政務を遂行することを信任するとしたこと。
3.内閣を規定したこと。ちなみに明治憲法には内閣の規定はない。「内閣」を憲法で規定すれば、当然陸海軍大臣や外務大臣は首相の下に位するから、軍部や外務省はやりにくくなる。実際問題として、軍部の専横を許した歴史の現実をみれば、この事実が明らかになる。
4.交詢社案の内閣規定のうち、重要なのは「内閣宰相ハ協同一致シ内外ノ政務ヲ行ヒ、連隊シテ其責任ニ任スヘシ」と内閣の「連帯責任性」を定めている点である。この「連帯責任性」は次の規定、「首相ハ天皇衆庶ノ望ニ依テ親シク之ヲ選任シ、其他ノ宰相ハ首相ノ推薦ニ依テ之ヲ命スヘシ」との規定と組み合わせると、政党内閣性の規定を形成する。「衆庶ノ望」は国会での多数でしか判断できないから、天皇は多数党の総裁を首相に選ばなければならない。そして「其他ノ宰相」はこの多数党の総裁が選ぶのであるから、天皇には政党内閣以外の選択肢はないことになる。
つまりは、「国王は君臨すれど統治せず」との英国の政治原則に沿ったものとなっていた。さらに政党内閣制や二大政党制までを包含する極めて革新的な政治思想に立脚したものだったと言える。
(本稿はこれまで。次回に続く。)
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明治十四年の政変と福澤諭吉(2)
山根 昭郎 (1975 法卒)
(前稿から続く)
◆『明治十四年の政変』の顛末
明治維新以後、全国各地で明治政府に対する反乱として「佐賀の乱」や「萩の乱」などが勃発したが、明治10年「西南戦争」を最後にその勢いは収束した。福澤諭吉は明治12年、「国会論」を郵便報知新聞社説に掲載し、その主張は自由民権運動の喚起につながった。さらに福澤は「民情一新」を発刊し、その中で英国型立憲政体について述べ、強く推奨した。
福澤は明治13年に交詢社を設立し、福澤門下生たちは「交詢社私擬憲法」を起草したが、それは前述の通り「国王は君臨すれども統治せず」との英国の政治原則を反映したものであった。大隈が明治14年に提出した意見書はイギリス流の立憲君主国家を標榜し、早期の憲法公布と二年後に国会の開設を主張するものであった。
そのような自由民権思想の台頭に危機感を覚え、儒教思想に基づく天皇の権力保持を一義と考えていたのが 井上毅であり、そのバックには伊藤博文がいた。
このように政府内部で対立する、①薩長藩閥と連携する伊藤博文・岩倉具視と、②佐賀藩の大隈重信のグループの争点の一つが、憲法のあり方、国会創設であった。伊藤等はプロシア風の立憲君主制を中心とする憲法・国会を考えていたのに対し、大隈らはイギリス流の議会制民主主義を目指していた。
そうした対立の中で起こったのが、官地払下げのスキャンダルであった。政府内外から激しい批判が高まり、政府は一度承認した払い下げを中止せざるを得なくなった。この事件を契機に自由民権運動が大いに鼓吹されることになった。この自由民権運動の盛り上がりに危機感を抱いた政府(薩長藩閥)は、批判の急先鋒だった大隈重信を政権から追放する挙に出る。同様に、大隈のブレーンであった慶應義塾門下生も官界からパージされることになった。
◆『明治十四年の政変』がもたらしたもの
1)明治国家としての変化
丸山昌男の指摘によれば、明治10年頃までの政府は日本の近代化、文明開化の先頭に立っており、明治初年の健全さと先進性が窺えるが、明治14年の政変を契機として、その施策は、藩閥の既得権を擁護する色彩に変わった。例えば、教育方針に見る儒学・国学の復活、欧化主義の裏に隠された国家主義的教育改革、明治23年の教育勅語、等々。
2)慶應義塾としての観点
政府から追い出され下野した慶應義塾門下生らは、官界への道は閉ざされることになった。しかし、彼らは『時事新報』を立ち上げたり、積極的に実業界へ進出したりしていった。やがて多くの門下生たちが財界へ進出し、企業を興していった。その中の一人に阪急を興した小林一三がいる。
また、野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年3月には立憲改進党を結成、また同年10月、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を開設した。
◆福澤諭吉の思いはどうであったか
福澤の思いは複雑であった。啓蒙思想家として成功を収めながら、政治思想家としての挫折を味わったのでないかと思われる。政府の教育方針に対しては次のように鋭い批判を行っている。
1)明治25年11月 『教育方針の変化の結果』要旨(時事新報)
・明治14年の政変以来、政府の失策は一つに留まらず、教育の方針を誤ったことこそ失策中の失策である。
・教育の誤りはアヘンの毒のように体を冒していく。それを治すのはたいへん時間がかかる。
・明治14年以来、政府当局者はにわかに教育方針を一変させ、復古主義に陥り、儒学の老先生を学校に戻し、新たに修身の教科書を編集して生徒に読ませる、英語やフランス語など外国語の教授を辞めさせると言いだした。
・もっぱら古流の道徳を奨励して、教育を「忠君愛国」の範囲内に押し込めようとしている。その上で文明進歩の大勢を止めようとしていることは忘れることのできないことである。
2)明治33年11月 『文明の政と教育の振作』要旨(時事新報)
・明治維新以来、旧物、旧習を破壊して、一意専心、文明に向かって進んできたのに、中途にして方針がにわかに一変して、種々のおかしいことを演じ、学問、教育上に一つの病質を醸し、患いを残して来たのは明治14年の政変の結果に他ならない。
・政変と同時に、突然教育の一挙に変えようして、文明進歩の気風を排斥しようとしたことがそもそもの大間違いである。
・明治14年の政変に際し、現総理の伊藤博文は、政府官僚の一人として、儒教主義復活の騒動を知らないはずがない。たとえ当事者でなくとも、その責任は断じて免れることはできない。
・十数年の失策の結果、排外思想を流行させたことは、外交上の障害になり、国の文明の進歩を妨げている。
・当局者は従来の主義を一変して、教育を新たにして弊害をなくそうとするならば、自分もいささかの労を惜しむものではない。
以上、雑駁ながら明治十四年の政変と福澤諭吉について考察をした。(了)
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(完)